ブラック・フラッグ史 (1979- 2019)

1976年

太陽まぶしくサーフィンが盛んなカリフォルニアのハモサビーチにて、22歳のギタリスト、グレッグ・ギンは弟のレイモンド・ギン(ペティボン、当時ベース担当)とバンド・パニック!(Panic!)を結成。ボーカリストにレコード店員だったキース・モリスが、ドラマーにキース・モリスの友人ブライアン・ミグドルが加入。しかしバンド練習がキツいためか、当初からメンバーの入れ替わりが激しかった。ベーシストが定まらず、エンジニアのグレン・ロケットa. k. a. スポットがベースを弾くこともあった。

1977年

ワーム(Würm)のベーシスト、チャック・ドゥコウスキが加入し体制が整う。初ライブを行う。

1978年

1月、EP『Nervous Breakdown』を録音(キース・モリス(Vo)、グレッグ・ギン(Gt)、チャック・ダコウスキ(Ba)、ブライアン・ミグドル(Dr))。レコーディング&ミックスエンジニアはスポット。同名バンドがいたことから、レイモンド・ペティボンの提案でバンド名をブラック・フラッグに改名し、ロゴを制作。以降のブラック・フラッグの作品もエンジニアリングはスポット、アートワークはペティボンのものが多数。ドラマーがロボに交代。

1979年

EP『Nervous Breakdown』をグレッグ・ギン自身のレーベル・SSTよりリリース。キース・モリスが脱退し、バンドのおっかけだったストリートキッズ、ロン・レイズが加入。EP『Jealous Again』を録音(ロン・レイズ(Vo)、グレッグ・ギン(Gt)、チャック・ドゥコウスキ(Ba)、ロボ(Dr))。

1980年

EP『Jealous Again』をリリース。ロン・レイズがライブ中に脱退(レコーディング中にも突然いなくなったりしていたらしい)。バンドのファンであったデズ・カデナがボーカリストとして加入。その後ロン・レイズはライブに出禁となる。

1981年

EP『Louie Louie』をリリース(デズ・カデナ(Vo)、グレッグ・ギン(Gt)、チャック・ドゥコウスキ(Ba)、ロボ(Dr))。

3月17日ワシントンD.C.でライブ。オーディエンスの中にはマイナー・スレットのイアン・マッケイ、S.O.A.のヘンリー・ガーフィールド(後ヘンリー・ロリンズを名乗る。ブラック・フラッグの大ファンだった。)がいた。バンドは彼らと親しくなり、その夜はイアン宅に宿泊。6月に東部のツアーを行う。以下ヘンリー・ロリンズの『Get In The Van』より抜粋、翻訳。


6月、ブラック・フラッグはまた東海岸にやってきた。6月27日にはニューヨークのIrving Plazaでライブ。共演はバッド・ブレインズとUXA。彼らを観に行った。早めに着いてグレッグとチャックと合流。午後はほとんど彼らと一緒につるんでいた。その夜の彼らは最高だった。ライブの後、バンドは7Aという小さなクラブに移動し、そこでも演奏をした。俺も彼らについて行った。

夜明けが近づき、俺は6時間後には職場にいなければならなかった。戻るのに車で5時間かかる1。もう時間だ。ステージに近づき、バンドに「Clocked In」で自分を送り出して欲しいとリクエストした。デズが言った。「次の曲は「Clocked In」だ。これをハンクに捧げる。彼はもう仕事に行かなきゃならないからね。」

デズを見てからマイクに目をやると、彼はマイクを渡してくれた。俺はステージに上がり歌った。何が自分にそうさせたのかはわからない。もちろん楽しかったし、デズも気にしてないようだった。俺はクラブを後にして、車で家に帰った。そして眠らずにそのまま仕事に向かった。眠る必要はなかった。ブラック・フラッグと一緒に歌ったことに、まだ興奮していた。ステージに上がり、あのバンドの中いることを体験できた、その事実だけで充分だった。


数日後、バンドはヘンリー・ロリンズにコンタクトを取り、オーディションを持ちかける。当時デズ・カデナは声を痛めており、またギタリストへの転向を希望していた。ニューヨークでセッションを行い、ヘンリー・ロリンズ正式加入。当時のことを語る動画(1:36あたりから)。

ロリンズの加入によってバンドはよりシリアスなアティテュードを持つようになる。グレッグ・ギン曰く「彼が入ってから、ユーモアのある曲ができなくなった。彼はシリアスで変わった詩なんかが好きだった。」とのこと。

『Damaged』を録音、12月にリリース(ヘンリー・ロリンズ(Vo)、グレッグ・ギン(Gt)、デズ・カデナ(Gt)、チャック・ドゥコウスキ(Ba)、ロボ(Dr))。

しかし、流通を担当する予定だったユニコーン・レコードの親会社・MCAの社長が、アルバムが「アンチ・ペアレンツ(反抗的)」であるとして、取り扱いを拒否。(実際は財政難が理由であった)訴訟事件にまで発展してしまい、数年間「Black Flag」という名前を使うことができなくなってしまう。満足な活動ができなくなり、デズ・カデナが自身のバンドDC3を結成するために脱退。

(旧体制で録音した『Damaged』収録曲は『Everything Went Black』で聴くことができる。エンジニアのスポットは「ツインギターになって酷くなった」と感じていたそう。)

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1982年

81年暮れからミニッツメンと共にUKツアー。ツアー終了後、ビザの問題によってドラマーのロボが帰国不可能に。15歳のエミル・ジョンソンがサポートドラマーとして一時的に参加。バンクーバーツアー中、D.O.A.のドラマー、チャック・ビスケッツがバンドを脱退し、そのままジョンソンと入れ替わる形でブラック・フラッグに加入。残りのツアー日程をこなす。この体制の楽曲は『1982 Demos』というブートレグで聴くことができる(ヘンリー・ロリンズ(Vo)、グレッグ・ギン(Gt)、デズ・カデナ(Gt)、チャック・ドゥコウスキ(Ba)、チャック・ビスケッツ(Dr))。しかしメンバー間の関係がうまくいかず、チャック・ビスケッツはキース・モリス率いるサークル・ジャークスに加入するために、わずか数か月後に脱退。バンドとセッションの経験があった、ディセンデンツのドラマー、ビル・スティーブンソンが加入。

1983年

チャック・ドゥコウスキが脱退(技術的な面などで、ギンは不満を持っていたそう)。しかしその後もツアーマネージャーを担当するなどして、バンドに関り続ける。レコード会社との問題がようやく落ち着き、本格的に活動を再開。12月にベース不在のまま『My War』を録音。デイル・ニクソン名義でグレッグ・ギンがベースも担当(ヘンリー・ロリンズ(Vo)、グレッグ・ギン(Gt・Ba)、ビル・スティーブンソン(Dr))。翌年3月リリース。

1984年

DC3でベースを弾いていたキラ・ロゼラーが加入。年間180本近いライブを行う。

9月に『Family Man』を、12月に『Slip It In』をリリース(ヘンリー・ロリンズ(Vo)、グレッグ・ギン(Gt)、キラ・ロゼラー(Ba)、ビル・スティーブンソン(Dr))。

1985年

昨年同様かなりの本数のライブを行う。『Loose Nuts』を3月に録音、5月リリース(ヘンリー・ロリンズ(Vo)、グレッグ・ギン(Gt)、キラ・ロゼラー(Ba)、ビル・スティーブンソン(Dr))。9月には全編インストゥルメンタルのアルバム、『The Process of Weeding Out』をリリース。

84年~85年はバンドにとって最も活動的な時期となった。しかしビル・スティーブンソンがディセンデンツの再結成に参加するために脱退。アンソニー・マルティネスが加入。この時期、8月23日に行ったライブの様子が『Who’s Got the 10½?』として翌年リリースされる(ヘンリー・ロリンズ(Vo)、グレッグ・ギン(Gt)、キラ・ロゼラー(Ba)、アンソニー・マルティネス(Dr))。

1986年

当時まだ学生であったキラ・ロゼラーの学業に合わせたバンドのスケジューリングに他のメンバーが不満を持ち、解雇。後任にセル・レブエルタが加入。しかし、ヘンリー・ロリンズとグレッグ・ギンの不仲(楽曲の作詞作曲はグレッグだが、ヘンリーにばかりスポットライトが当たることなどにグレッグは不満だったらしい)、過酷なツアー日程による疲労などから、バンド内の緊張感は日々高まっていった。

1986年6月27日、デトロイトにて最後のライブ。8月、グレッグ・ギンがヘンリー・ロリンズに電話してバンドの解散を告げる。以下ヘンリー・ロリンズの『Get In The Van』より抜粋、翻訳。


彼はバンドを辞めると言った。変な話だと思った。そもそもブラック・フラッグは彼のバンドだからだ。そして、短い電話ですべてが終わった。


1989年

1985年に録音したEP『I Can See You』をリリース(ヘンリー・ロリンズ(Vo)、グレッグ・ギン(Gt)、キラ・ロゼラー(Ba)、ビル・スティーブンソン(Dr))。

2002年

ヘンリー・ロリンズ率いるロリンズ・バンドがブラック・フラッグの曲を演奏する『Rise Above: 24 Black Flag Songs to Benefit the West Memphis Three』をリリース。初期メンバーたちの他、イギー・ポップ、レミー、 Ice-Tなど豪華なメンツが参加した。(グレッグ・ギンは不参加)。CDの売り上げは、ウェスト・メンフィス3基金へ寄付された。

2003年

猫の保護団体のチャリティイベントで再結成。メンバーはデズ・カデナ(Gt&Vo)、グレッグ・ギン(Gt)、セル・レブエルタ(Ba)、ロボ(Dr)。『My War』のセットでは、プロスケーターのマイク・ヴァレイ(Vo)と、グレッグ・ギンのサイドプロジェクト・ゴーン(Gone)のメンバーであるグレゴリー・ムーア(Dr)が参加。

2010年

ロン・レイズの誕生日イベントにグレッグ・ギンが客演。ブラック・フラッグの曲を3曲演奏。

2011年

ディセンデンツのライブにて、キース・モリス(Vo)、チャック・ドゥコウスキ(Ba)、ビル・スティーブンソン(Dr)の3人にディセンデンツのステファン・エガートン(Gt)を加えて、『Nervous Breakdown』のEPを全曲演奏。

2013年

1月、グレッグ・ギンがロン・レイズと共にブラック・フラッグ再結成をアナウンス。同年12月に28年ぶりのアルバム『What The…』をリリース。(ロン・レイズ(Vo)、グレッグ・ギン(Gt)、デイブ・クレイン(Ba)、グレゴリー・ムーア(Dr))。

11月、オーストラリアでのライブ中、マネージャーとしてバンドに同行していたマイク・ヴァレイがステージに現れ、ロン・レイズからマイクを奪い取り最後の2曲を歌う。これを機にロン・レイズはバンドをクビに。(ロンは、グレッグとやってくのがキツかったから正直ホッとした、と語っている)。また、ベーシストとして参加していたデイブ・クレインも脱退。

さらに同時期、キース・モリス、チャック・ドゥコウスキ、ビル・スティーブンソン、ステファン・エガートンがフラッグ(Flag)名義でブラック・フラッグの曲を演奏するツアーをアナウンス。後にデズ・カデナの参加も決定。これに怒ったグレッグ・ギンが「勝手にバンド名やロゴを使うな」と訴えるが、申し立ては却下される。

2014年

マイク・ヴァレイが正式なボーカリストとしてブラック・フラッグに加入。

2019年

ブラック・フラッグとして5年ぶりにライブを行う。ベースにはタイラー・スミスが、ドラムにはイサイアス・ジルが加入。

to be continued…

Greg Ginn’s Black Flag are back, playing Sabroso fest pic.twitter.c...

参照

Wikipedia – Black Flag

By Any Means: A Brief History of Black Flag

Get In The Van by Henry Rollins

脚注

  1. ヘンリーの住むワシントンD.C.とニューヨーク間は車で約5時間
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