フランク・ザッパとキャプテン・ビーフハート


フランク・ザッパ(1940年12月21日生)とキャプテン・ビーフハートことドン・ヴァン・ヴリート(1941年1月15日生)が出会ったのは、カリフォルニア州ランカスターの中学校。二人はR&Bやシカゴブルースといった共通の趣味を持っており、ビーフハートの家で夜な夜なレコードを聴いて過ごしていたそうです。二人は1963年にザ・スーツ(the Soots)というバンドを組んでレコーディングをしましたが、ドットレコーズから「No commercial potential(売れる見込み無し)」と拒否され、本格的な活動には至りませんでした。

ザッパは64年にマザーズ・オブ・インヴェンションを結成。66年に『Freak Out!』でデビューします。

一方ビーフハートも64年にマジックバンドに参加し、66年にボ・ディドリーのカバー「Diddy Wah Diddy」のシングルでデビュー。1967年にアルバム『Safe As Milk』を発表します。

ビーフハートはマジックバンドを率いてレコーディングを続けますが、レーベルのカラーに合わず、次作の『Strictly Personal』のリリースが見送られてしまいます(後に別のレーベルからリリース)。そんな中、ザッパは自身のレーベル、ストレート・レコードを設立し、ビーフハートに声を掛け、自由に作品を作らせることを約束します。68年~69年にかけて録音し、そして完成したのが約80分にもおよぶレコード2枚組の大作『Trout Mask Replica』(1969)です。ザッパはプロデュースもしています。(音楽レビュー誌/サイトのAll Music、Q、Rolling Stone Album Guide、Pitchforkでそれぞれ満点の評価。)

『Trout Mask Replica』リリース後、ザッパは単独名義としては2作目となる『Hot Rats』(1969)の制作に着手し、同作品に収録されている「Willie the Pimp」でビーフハートをボーカリストとして招聘しています。

1969年はザッパとビーフハート、それぞれの代表作ともいえる作品が発表された年になりましたが、1969年に発表されたその他のアルバムの一部がこちら。

ビートルズ 『Abbey Road』
ローリング・ストーンズ 『Let It Bleed』
レッド・ツェッペリン 1stと2nd
キング・クリムゾン 『In The Court Of The Crimson King』(1st)
ソフト・マシーン 『Volume Two』(2nd)
スライ&ザ・ファミリー・ストーン 『Stand』
ボブ・ディラン 『Nashville Skyline』
ビーチ・ボーイズ 『20/20』
ジャニス・ジョップリン 『I Got Dem Ol’ Kozmic Blues Again Mama!』(2nd)
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド 『The Velvet Underground』(3rd)
ストゥージズ 『The Stooges』(1st)
MC5 『Kick Out The Jams』(1st)
ニール・ヤング&クレイジー・ホース 『Everybody Knows This Is Nowhere』
ジョニ・ミッチェル『Clouds』(2nd)
CAN 『Monster Movie』(1st)
アモン・デュールⅡ 『Phallus Dei』(1st)
etc.

8月15日~17日にはウッドストックが開催されて、ジミ・ヘンドリクスがアメリカ国家「The Star Spangled Banner(星条旗)」を弾き倒しています。ものすごい年でした。

さて、傑作を生みだしたビーフハートとザッパですが、パラノイアを持つビーフハートは「ザッパが自分を見世物にしようとしている」と思い込むようになり、二人の関係は悪化していきます。1972年Frendz誌に掲載されたインタビューでビーフハートはこう語っています。

ザッパは今まで出会った中で一番気持ち悪いやつだ。俺をフリークに見立てて売り出そうとしやがって。なんて厚かましい野郎だ!」

以下は、1973年11月Eyeopener誌に掲載されたザッパのインタビューの翻訳ですが、この中でザッパは「Captain Beefheart is an axxxxxe」とバッサリ。

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木曜日、アイオープナー誌エンターテイメント部編集者デイヴ・パーキンスは、超絶技巧グループ、マザーズ・オブ・インヴェンションの口ひげビートニクリーダー、フランク・ザッパの独占インタビューを行った。以下がそのインタビューである。

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―カリフォルニアはランカスターに住んでいたフランク・ザッパという名の高校生は、如何にして音楽に興味を持ったんですか?

ただ始めただけだ。

―なぜコンボ編成のバンドを組んで商業的でストレートな音楽を演奏するのではなく、今のスタイルを選んだのでしょうか?

ストレートな音楽をやるのは構わないが、今やってることのほうがもっと楽しいからだ。一部のオーディエンス向けに複雑な音楽をやっているが、だからといって皆好きになれないという訳じゃない。

―一部のオーディエンス、というのがキーポイントですね。あなたの音楽をもっと一般向けにしようとトライされたことはありますか?

皆が俺の音楽に興味を持つだろうなんて考える程俺は馬鹿じゃないんでね。ずっとファンでいてくれるオーディエンスが優遇されるのさ。

―ドン・ヴァン・ヴリート(キャプテン・ビーフハート)との関係は?

キャプテン・ビーフハートはアスホールだ。俺らは一緒に高校に通ってね。当時のドン・ヴァン・ヴリートはいい奴だった。ヤツに音楽を始めるきっかけを与えたが、もう会う事もない。

―何故初期のアルバムで彼にボーカルを取らせたんですか?(「Willie the Pimp」)

それは奴がアスホールになる前の話だ。奴はもうクリエイティブじゃなくなってしまった。

―あなたはどんな風にクリエイティブですか?締切が近づいて来たら、自由にオンオフが出来るものなんでしょうか?

俺は一日36時間クリエイティブだ。余分の12時間は別の星での俺のスケジュールだ。締切に関して言うと、俺のいる業界では避けられない現実だな。

―締切のせいで満足にいかなかったアルバムはありますか?

締切を回避する方法がある。発売日を遅らせるんだ。そうすれば次のアルバムはもう一ヵ月はリリースされない。満足いかなかったアルバムを出したことは今まで一度もないね。

―ではすべてのアルバムに満足されていると?

アルバムを聴き過ぎた時は嫌になることもあるさ。でも2か月くらい放っておいてから改めて聴くと、また満足するね。

―マザーズのアルバムでフェイバリットは?

次のアルバム。

―ライブ中、どのくらいファンに近づいて来て欲しいですか?実際の距離でも、音楽的な距離でも。

彼らにはまず俺の音楽に夢中になって欲しい。それからライブに加わってほしい。ウォータールー(以前ウォータールー大学で行われたライブ)では、オーディエンスの中でビーバップ・タンゴ・コンテストを開催したよ。

―以前ライブ中にオーディエンスをステージに上がらせてましたが、なぜですか?

潜在的に皆バンドと一緒にステージに上がりたいと思っているから、その後押しをしただけだ。

―ロンドンでステージ上のファンの一人があなたをオーケストラピットの中へ押し倒したことがありましたが、何が起こったんですか?

あの男は気が違っていた。ショーが終わってバンドがステージを降りようとした時、その男が俺の背後からステージに上がってきた。それから俺をオーケストラピットの中、4.5メートル下のコンクリートの地面へ突き落としたんだ。頭蓋骨後頭部に穴を空けるはめになって、首は捻るし、手首と足の骨も折った。9か月も車椅子生活で、1年間もツアーができなかったよ。

―なぜロイヤル・アルバート・ホールを出禁になったんですか?

ホールを運営してる女性がイカれてるからだ。年老いて、やたら上品ぶったヤバい女でね。ステージ上での禁止ワードを12個もリストにして俺らに渡すんだ。その内のひとつが「ブラジャー」。彼女がどんな人物かわかるだろう。他にもホール出禁のバンドは12くらいいる。

―他のバンドと言えば、どんなバンドのファンですか?

フランク・ザッパ。誰のファンでもない。

―では他のミュージシャンから影響を受けたことはないと?

どんな作曲家でも過去に作られた作品を利用するものだ。共感できるものを作ってるだけなんだよ。

―どんなことに共感されますか?

良い時間を過ごすこと。

―良い時間を過ごすというのはどういうことでしょうか?

それは日によって変わる。今日はフロリダのオーディエンスに向けて演奏したい気分だ。

―なぜフロリダのオーディエンスなんでしょう?

今回のツアーでこれまで相手にしたのは北部のオーディエンスだ。客層が違うから南部で演奏したいね。

―どんな風に違うんでしょう?

彼らはまったく違う文化を持っていて、ずっとおおらかだ。北部は気候がずっとタフで生活が厳しいから、オーディエンスはもっと無口だ。

―(カナダの)トロントでよくライブされてますが、なぜですか?

トロントは働くには悪くない場所だ。寛容な良い観客がいつも来てくれる。

―今回は6週間に及ぶツアーです。28か所も周るので、かなりの距離を旅されるわけですが。旅はお好きですか?

旅は大好きだ。

―ホテル→ライブ→空港というタイトスケジュールの場合、どのくらいのことができますか?

空港から移動するだけで、その街のことや人々のことをかなり知ることができる。広告板や道路標識だってそこに住む人々の気質をよく伝えてくれるものさ。

―どこの標識が最悪でした?

南カリフォルニアが今のところ一番間抜けだ。

―ツアーが好きな人もいれば、嫌いな人もいますよね。仕事としてやられていますか?それとも楽しんでやられてますか?

まったくもってその通り。これは仕事だ。ハードワーク。

―作曲をされる時、メンバーと話し合って彼らの意見を聞いたりしますか?

しない。俺は自分を満足させるために曲を書いている。もし誰かがそれを気に入って、外出してアルバムを買いに行ってくれるのならそれはいいことだ。

―レコーディング契約はあなたに金銭的保障を与えていますか?あなたにとってどれ程重要でしょうか?

今日辞めたって二度と働かなくてもいい、とは言わないが、金銭的保障は皆と同様俺にとっても重要なものだ。妻もいるし、2人の子供もいる。3人目もそろそろ生まれる予定だ。どうやら衣食住が揃った時にうまく機能する、人体という殻の中で我々は生活しているらしい。

―辞めようと考えたことはありますか?もし辞めたらどうされますか?

俺は音楽は辞めない。好きだし、リラックスさせてくれるものだ。音楽しかやりたくないね。

―現在の契約はどんなものでしょうか?

今後4、5年分の新しい契約について丁度話し合ってきたところだよ。

―アメリカの様々な政治的問題を踏まえた上で、大統領に関するあなたの意見は?

ニクソンは恐らく犯罪者だ。ベベ・レボゾ(ニクソンの政治顧問)に選んでもらったタンスと一緒に刑務所に送るべきだな。

―ニクソンについての歌を書かれたことは?

あぁ、「Dicky’s Such an Asshole(ディッキーはなんてアスホール野郎だ)」ってのを作ったよ。時間が出来たらアルバムに入れるつもりだ。

―フランク・ザッパの今後の予定は?

『Apostrophe』というソロ・アルバムを来年の一月に出す予定。ドラム以外全て自分で演奏した。

―その中で特別な曲はありますか?

男が靴を脱いだ後に犬が苦しみだす、Mennenの足スプレーのCMにインスパイアを受けた曲が一曲ある(※実際はDr. Schollの足スプレー)。そんなテーマの曲を作るのにどれだけ苦労するか知ってるか?

―最後に一言どうぞ。

靴直せ。


マザーズとマジックバンド、両方でギターを務め、ザッパとビーフハートを学生時代からよく知るデニー・ウォーリーは、70年代前半に起こったある出来事をこう回想しています。

ある日ビーフハートが自身の彼女を連れてザッパの家を訪ね、彼に結婚することを告げたそうです。

「その時フランクはこう言ったんだ。『かわいいじゃないか』って。ドンは立ち上がって鋭い目つきでフランクを睨むと、目の前で手を振ったんだ。まるで自分の人生から彼を消し去るみたいにね。彼は背を向けてその場から去っていった。それから何年もフランクと話さなかったんだ。フランクはいつでも正直で、ひねくれて乾いたユーモアの持ち主だった。でも彼の発言におかしなことはまったくなくて、悪意はなかったんだよ。」

69年以降、ザッパはマザーズのメンバーを再編しながら、1年に1~3枚(!)のペースで作品リリース。ビーフハートもコンスタントに作品を発表し続けていましたが、1974年『Unconditionally Guaranteed』の録音直後に、マジックバンドのメンバーが全員脱退します。まったく売れなかったため金がなく、食べることもままらず、両親から援助をしてもらう始末で、そのうえビーフハートの独裁的で横暴なコントロールにみんな我慢の限界だった、というのが理由らしいです。

ビーフハートは急いで新たなメンバーをかき集め、同年『Bluejeans & Moonbeams』を発表しますが、これまでと異なったソフトなサウンドに評価は散々でした。この二枚についてはビーフハート自身も「恐ろしく低俗」と評し、ファンに対して「返金するから返品しろ」とまで言っています。(しかし『Bluejeans & Moonbeams』はケイト・ブッシュがフェイヴァリットに挙げたり、ホワイト・ストライプスやマーキュリー・レヴが収録曲をカバーするなど後に評価されています。個人的にはビーフハートの作品群の中でもトップに入る一枚だと思います。)

メンバーやファンからも見放され、さらにはレコード会社との契約の都合で身動きが取れなくなってしまったビーフハート。ザッパは1993年BBCのインタビューで、彼のことをこう語っています。

「ドンには目の前に出されたどんな契約書にもサインしてしまう能力があるんだよ。その紙が何を言っているのか、どんな影響を及ぼすのかってことをちゃんと確認せずにね。だから彼のキャリアには酷い時期があった。ツアーもレコーディングもできなかったんだ。そんな時に俺は彼を自分のバンドに招き入れて、Bongo Furyツアーをしたんだよ。」

この時連絡を取ったのはビーフハートの方からでした。

「彼は馬鹿やったことを俺に謝罪して、仕事をくれるよう頼んできたんだ。(オーディションをしたが)ダメだったね。彼はリズム感に問題があった。俺らはリズムを重視してたから。歌詞を覚えるのも、それをビートに乗せるのも苦労してたけど、少しずつよくなってった。ツアー直前にもう一度試して、ようやくうまくいったよ」

ツアー前、ザッパは74年~75年にかけて後に『One Size Fits All』として発表される曲の録音を行っていました。ビーフハートは「Bloodshot Rollin’ Red」の変名で同作品に参加しており、「San Ber’dino」でハーモニカを披露しています。

ザッパとビーフハートは1975年4月11日から約1ヵ月程ツアーを行います。しかし、ザッパの演奏中にステージ上で絵を描き始めてしまうなど、本来ゲストであるにもかかわらず自由にやりすぎてしまうビーフハートに対してザッパはほとほと疲れ果ててしまったようです。1993年のインタビューでザッパはこう言っています。

「楽じゃなかった。でも数週間だけだ。」

5月20日、21日に行われたライブの様子は、同年10月にZappa/Beefheart名義で『Bongo Fury』として発表されます。

ツアーが終わり、ビーフハートは新たなマジックバンドを従えて『Bat Chain Puller』を完成させます。『One Size Fits All』の共同リミックス・エンジニアであるケリー・マクナブとビーフハートとの共同プロデュースで、ザッパも「『Trout Mask Replica』以来の最高の出来」と評価したほどでしたが、ザッパのビジネス・マネージャーであったハーブ・コーエンとの金銭問題に巻き込まれ、裁判沙汰にまで発展してしまい、作品はお蔵入りとなってしまいます。(その後2012年にようやくリリースされます。)

ビーフハートはワーナーと契約し、作品の曲を再録音したものを『Shiny Beast (Bat Chain Puller)』として1978年にリリースします。

『Bat Chain Puller』のために作られた曲は、後の『Doc at the Radar Station』(1980)『Ice Cream for Crow 』(1982)に収録されることになります。

1983年、デヴィッド・レターマン・ショーにザッパがゲスト出演した際、ビーフハートについて語っています。

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―キャプテン・ビーフハートとの関係について聞かせてくれるかな?

彼と同じ学校に通ってたんだよ。ここしばらく見てないな。多分最後に会ったのは2年前だ。リハーサル中に顔を出しに来たんだよ。

―若い頃は一緒に作品を作ってたんだよね?

あぁ。学校にいた頃はよく…その、彼の父親が病気でね。彼は学校を辞めなきゃいけなかった。俺は進学したけど、彼はすでに学校辞めて家族の手伝いをしてた。よく彼の家に遊びに行って、ずっとリズム&ブルースのレコードを聴いて過ごしてた。ランカスターじゃそれしかやることがないからね。

―ランカスターは…。

カリフォルニア州だ。…ランカスターってのは名前を言ったところで誰も拍手もしない街なのさ(笑)。オークランドだったら反応するけど、ランカスターは別だね。本当に殺風景なところだ。

それで、俺らは夜通しリズム&ブルースのレコードを聴いてた。彼の父親はヘルムズ・ベーカリー(パン屋)のトラックを運転してたんだけど、そんな夜は決まって彼はトラックに忍び込んで、パイナップルパンを盗んで一緒に食べてたんだよ。

それから彼はバンド(マジックバンド)を組んで、俺もバンド(マザーズ)を組んだ。彼のバンドが解散して何もしてなかったから、俺のバンドに誘って、一緒にツアーをやって、一枚アルバムを作った。その時から別のメンバーでバンドを再開して、以来ワーナー(ミュージック)でレコーディングしてるよ。

―彼、かなり面白い人だよね

変な奴だよ。

―だね(笑)。君が(キャプテン・ビーフハートの)名前を付けたのかい?

この名前は、確か彼の叔父さんが言ったコメントから取られたんだよ。これはちょっと卑猥な状況と関係していてね。当時(ビーフハートの)彼女が彼と同じ家に住んでたんだけど、叔父さんが彼女に対して下半身を露出したんだよ。キャプテン・ビーフハートというキャラクターはこのコメントから派生している。「キャプテン・ビーフハート vs ザ・グラント・ピープル(不機嫌な人々)」っていう映画の脚本まで書いて、ここからこのキャラクターは生まれたんだ。それで彼が自分のバンドの名前に使ったんだよ。


これ以降2人が音楽で交わることはなく、ビーフハートは『Ice Cream for Crow 』を最後に音楽を引退、画家に転身します。

キャプテン・ビーフハートことドン・ヴァン・ヴリートは1941年カリフォルニア州グレンデールに生まれ。3歳から絵画/彫刻を始め、特に動物(恐竜...

1993年、ザッパが癌に侵されていることを聞いたビーフハートは、週に一度彼に電話をして、二人が昔聴いていたレコードをかけていたそうです。ザッパは1993年12月4日に52歳で亡くなります。

1994年、映画監督のアントン・コービンは、ビーフハートが出演する白黒のショートフィルム『Some YoYo Stuff』を制作。(1997年イギリスBBC2で初放映。)座って葉巻を吸うビーフハート。その背後のスクリーンに文字や映像が映し出され、それぞれの言葉やモチーフに対して彼がコメントをしていく、という内容で、映画監督のデヴィッド・リンチも登場しています。そして後半には「Zappa」の文字が映し出されます。彼に対する最後のコメントは

「He was the only Frank Zappa I knew. (彼は俺が知っている唯一のフランク・ザッパだ」

でした。キャプテン・ビーフハートことドン・ヴァン・ヴリートは、2010年の12月17日に69歳で亡くなりました。

参照

Wikipedia – Frank Zappa

Wikipedia – Captain Beefheart

Wikipedia – Bat Chain Puller

Louder

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