ダモ鈴木 インタビュー (2014)

ダモ鈴木は1950年生まれの神奈川県出身のミュージシャンです。若い頃に日本を飛び出し、ひょんなことから伝説的なバンド・CANのボーカリストになり、それ以降音楽を演奏しながら世界中で旅を続けています。今回は、2004年 VICE に掲載されたインタビュー訳です。原文はこちら

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ダモ鈴木でいること~ポスト・パンクとアンビエント音楽を事実上生み出した男

ダモ鈴木は1950年に日本で生まれた。10代でアジアを離れヨーロッパを旅し、ケルンで結成され、閉館した映画館で活動していたバンド、CANに突如シンガーとして加入。その後ダモは、(あなたが誰と話しているかにもよるが)ポスト・パンク、アンビエント音楽を生み出し、そしてストーン・ローゼズにも多大な影響を与えた。フォール至ってはダモの歌までも作っている。

1974年、ダモはバンドと共に4枚のアルバムを制作した後、世界を旅する為にCANを脱退。そして1983年「ネバー・エンディング・ワールド・ツアー」を開始し、現在に至るまで世界中の何百ものミュージシャン達と即興演奏を続けている。我々はダモと、60年代のコミューン、サハラ砂漠で死にかけた話、石器時代との交信などについて語り合った。

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―あなたの育った日本はどんな感じだったんですか?楽器は弾いていました?

僕はすごく若かった。17歳とかで、音楽は作ってなかった。当時は今とは全然違ったよ。8歳か9歳の時に初めての楽器、確かフルートをもらって、それからクラリネットとサックスも。姉が銀行に勤めていて、誕生日になると毎年楽器をプレゼントしてくれたんだ。ギターとオルガンも持ってたね。姉は僕に音楽をやってほしかったみたい。

―1967年にヨーロッパにやって来て、ストリートパフォーマンスをやられてたんですよね?

ちょっと違うかな。スウェーデンの田舎にあったコミューンで、50人の居住者と一緒にそこでの生活を楽しんでたよ。特に何もせず、自然の中で暮らしてた。大きな街じゃ息苦しいでしょ。先週スロベニアの田舎の川沿いにいたんだけど、魚もいたし、そういう場所が恋しいんだ。だって大きな街はさ…ケルンはロンドン程大きくないけれど、すごくストレスが溜まるんだよ。時間があっという間に過ぎちゃって、自分を見失うよね。いろんな解決方法が邪魔になるんだよ。地下鉄に乗ってる間しか時間がなかったりして。自分の時間をコントロールできないんだ。

―街にいるとコントロールが効かなかったりしますよね。特にロンドンにいると、時に同一性意識を失ってしまったりとか。

そう。なぜなら街のど真ん中にいるから。たぶん0.001%くらいじゃないかな。田舎だったら、もっと人とたくさんコミュニケーションが取れるでしょう。だからスウェーデンで50人と一緒にいたんだよ。50人みんなと話してたよ。ロンドンに住んだらきっと誰とも話さないだろうね。

―スウェーデンの後はどうしたんですか?

音楽を演奏したり、ペインティングしたりしながらヨーロッパを周ったよ。ドイツ、フランス、スイス、フィンランド。半年ぐらいやって、それからアイルランドのウェックスフォードに半年住んだ。あとロンドンのセブンシスターズにも。それから日本に帰って勉強しようと思ったんだけど、ミュンヘンでいい仕事が見つかってね。

―それがCANですか?

いいや、それはミュージカルでギターを弾く仕事だったんだ。給料はよかったんだけど、3か月たったらすごくイライラしてきてね。というのも毎日同じことの繰り返しだったから。CANと出会った時のことは正直あんまり覚えてないんだ。でも毎日街に出てはストリートパフォーマンスみたいなことをやったり、ただ叫び散らしたりしてたよ。めちゃくちゃイラ立ってたから。それで彼らが僕を見て、シンガーにならないかって聞いてきたんだ。僕の声が好きだからじゃなくて、エイリアンみたいな恰好の奴が欲しいからって。今とは全然違って、70年代初頭は日本人とか中国人は珍しかったから。イギリスなら中国人はいたかもしれないけど、日本人はいなかった。だから彼らは僕を欲しがったんだ。どんな風に歌うかなんて知らずにね。

―それでその晩リハーサルもなしにライブに参加したんですよね?

うん、衝動的にね。今ダモ鈴木ネットワークでもまったく同じことをやってるよ。こっちの方がもっと対話的だから、いいと思うな。音楽は会話でしょう。だからライブはもっとずっと強烈なんだ。ダモ鈴木ネットワークの音楽と他の99%の音楽はまったく異なる。別世界だよ。君が会場に居ること、それが一番大切なんだ。それが君の時間なわけさ。でも家でCDを聴いているだけだと、それは自分の経験にはならなよね。ライブだったら、座り込んで「つまらない演奏だなー」なんて言うこともあり得るけど、そんなのは問題じゃない。もしライブに行ったら、例えば、新しい友達ができるかもしれない。音楽だけじゃないんだよ。会場に来れば色んな経験ができるんだよ。それが君の人生なんだ。

―あなたがCANに加入した時、バンドはまだ城に住んでいたんですか?(※バンドは結成当初貴族に借りた城でセッションをしていた。)

いや、当時彼らは「インナースペース」っていう、古い映画館を改造したスタジオにいた。それこそコミューンみたいな感じで、ツアーに出てる時以外は、3年間毎日そこにいたよ。当時自分のスタジオがあるバンドなんてほとんどいなかったから、そこでレコードが作れたのは幸運だったね。無料で好きな時に録音できたから、12時間録音して、そのテープを後で曲にする為に編集したりした。他のバンドとは環境が違ったから、新しい音楽の制作方法を生みだせたんだ。

―CANのどのレコードが一番お気に入りですか?

ない。お気に入りはないんだ。僕が好きなのは今自分がやってることだね。

―70年代のドイツからはたくさんの素晴らしいバンドやミュージシャンが輩出されましたね。誰かと友達だったりしますか?

何人かはね。NEU! が活動休止した後に結成されたラ・デュッセルドルフのメンバー達は特に。ホークウインドの一人か二人も友達だったね。彼らと音楽は作らなかったけど、メンバーのニック・ターナーとレミーとはやったよ。アモン・デュールのメンバーも知ってた。CANに加入する前にミュンヘンの部屋を一緒に不法占拠して住んでたから。

―CANを脱退してからエホバの証人に入信したそうですが、まだ続けているんですか?

いいや、もう辞めて25年くらい経つよ。信者の女性と結婚して長い間一緒だったんだ。今もちゃんと聖書の教えに倣ってるけど、教会とか、組織に属するのは好きじゃないんだよね。というのも、聖書は真実を伝えてると僕は思うから、一日一時間は読んでるよ。でもエホバの証人だった1980年代に癌が見つかって、輸血無しで手術したりしたんだ。

―回復してからはどうしたんですか?

半年間は歩けなかったし、何もできなかった。でもある日突然音楽が作りたくなってね。音楽業界の中じゃなくて。自分がまだ生きているっていう実感を表現したくって。それから音楽に捧げる新しい生活が始まったんだ。僕は即興をするときに、インスタントミュージック(瞬間的な音楽)を作るんだけど、それって人生そのものとすごく似てるよね。作曲をしたらそれは人生とは違ってビジネスだよ。僕は音楽がやりたいんだ。ビジネスじゃなくて。みんなそれぞれ異なった「ミッション」があるんだ。そのミッションは自分自身と繋がっているから、もし自分の道を探しているのなら、よりよい自分になる為にナビゲートするんだ。そうすれば、精神的な意味でもっと豊かになれる。それこそが一番重要なんだ、自由になるってことが。多くの人は別世界からの情報を必要としているせいで、この世界では自由ではいられていないよね。テレビを見て、新聞を読んで、あたかも自分が体験したかのように話すけど、すべてはマスメディアの情報でしかない。だから自分自身の道を見つけるべきなんだ。そうすれば自分の考えを人々に話すことができる。

―何があなたのインスピレーションですか?

表現っていうのはほとんどの場合は自分自身の経験からきてるよね、それは子供の頃からそう。僕の母親はすごく強烈な人で、僕は彼女のDNAを色濃く受け継いでるんだ。それもインスピレーションだよ。そう、インスピレーションっていうのはあまり自分では気づけないものだね。

―あなたは異なる言語をミックスして、さらに「石器時代の言葉」と自身でおっしゃっている、抽象的な音も使って歌っていますよね。それは今言われたことと関係があるんですか?

そうだね。普通こういうタイプの音楽にはある種のテクスチャ(音の雰囲気、響き)があるよね。もし君にテクスチャがあるなら、僕は歌を300回は歌わなきゃいけない。僕にはそれはできないんだよ。本能的であり対話的でなきゃいけないんだ。だから観客は僕と一緒に旅をするわけだ。それから僕のライブで、君は自分で自分のストーリーを紡ぐことができるし、隣にいる人はまた違ったストーリーがあって。そして僕は観客一人ひとりと繋がることができる。これはすべてが可能であるっていう一種のトランスの形であって。なぜかというと僕はみんなに何も言わないで、彼らが彼ら自身を作り上げているから。それこそが大事なんことなんだ。もし自分自身と精神的に交信したなら、自分はモノトニック(単調、変化なく一貫している)になる。それって認識ができるから、すごくいいことなんだ。例えば画家のミロ。僕は大好きなんだけれど、なぜかというと彼の絵を見ればミロだってわかるから。一目見れば、あぁ、ミロだって。マイルス・デイヴィスもそうだよね。トーンを一つ二つ聴いただけでこれはマイルスだってみんなわかるよね。それらには共通点があって、それは全部モノトニックだってことなんだ。もし作者がモノトニックであれば、誰の作品であるかみんな気付けるんだよ。

―これからアフリカとアジアを旅されるんですよね?

うん。ただ64歳になって長距離移動もきつくなってきたから、最近はそんなにたくさんはできないけど。

―サハラ砂漠で死にかけたって記事を以前どこかで読んだんですけど、何が起こったんですか?

水が充分になかったんだ。サハラ砂漠を一人で歩いていて、自分自身を失いかけた。でも車で通りかかった見知らぬ人が僕を見て助けてくれたんだ。確か80年の終わり頃だったと思う。

―ツアー中に起こった一番不思議な出来事はなんですか?

ある意味ではすべてが不思議だよ。一つこれが不思議だったっていう風には挙げられないな。すべてが不思議だから。何かが不思議だっていう意識は、僕と僕の心理的な状態によるものだし。だから人それぞれ定義は異なるよね。

―ダモ鈴木ネットワークでレコーディングをしたりしないんですか?

ライブしかやらないんだ。ライブをレコードに収録したいっていうのを許可した奴は何人かいるよ。スウェーデンに一人、カナダに一人、全部で4人かな。でも作品をたくさん作ったりすることにはあんまり興味がなくて。音楽を商品としては考えたくないんだ。僕にとっては「プロセス」だから。

―若い自分に何かを伝えられるとしたら何を伝えますか?

自分自身の道を見つけろと言うね。一番単純で、でもほとんどの人が気が付かないことだよ。みんなそれぞれ才能がある。でも他人から情報をもらい過ぎてしまって、自分自身では何も生み出せないんだ。もし0から始めればとても美しいものが生み出せるし、精神的にも豊かだよね。古い情報は忘れて何も信じないこと。ジーザスと自分自身を信じよう。

―あなたの将来のプランは?

ダモ鈴木でいることだね。


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