ホルガー・シューカイ インタビュー (2009)

CANの創設メンバーの1人であるホルガー・シューカイは1938年生まれ。サンプリングを早い段階から取り入れたり、「ワールドミュージックという名前が付く前から」世界中の音楽を探し求めたりと、あらゆる分野におけるパイオニアでした。CANの音楽が時代に取り残されることなく常に新しいオーディエンスを得続けているのも、彼のセンスに依るところが大きいと思います。1981年には日本のミュージシャン・Phew氏のデビューアルバムを元CANのヤキ・リーベツァイト等と共に制作しています。

以下は2009/2017年、FACT誌に掲載されたインタビューの和訳です。原文はこちら


CANのヒーロー、ホルガー・シューカイ。シュトックハウゼンと短波ラジオと「魅力的過ぎる」自分

CANのメンバーの1人でサンプリングのパイオニアでもあるホルガー・シューカイが(2017年)9月5日に79歳で亡くなった。約50年の長きに渡って作られた素晴らしき音楽の遺産を残して。本インタビューはFACTが2009年に公開したもので、この先進的なミュージシャンはKek-Wに、彼の形成期、シュトックハウゼンの下での学び、音の境界を越えた瞬間などについて語った。

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ホルガー・シューカイは異端児であり、数々のバンドに影響を与えたジャーマンバンド・CANでの活動や、奇異で独創的なソロ作品で知られる伝説的な人物である。私がどんな紹介文を書こうが、彼のすべてを伝えることなんてできない。

ジャズミュージシャンとしてのスタートに失敗した彼は、ケルンにて1963年から1966年までの間、アヴァンギャルド作曲家の先駆者であるカールハインツ・シュトックハウゼン1の下で学んだ。シュトックハウゼンはメンターとしてその後の彼の人生と音楽の思想に生涯にわたって影響を与えることとなった。1968に若きジャーマンギタリスト、ミヒャエル・カローリと共にバンドを結成、バンドは間も無くThe Canと名乗るようになる。

当初はアメリカン/ブリティッシュビートミュージックの影響があったが、CANがストレートなロックバンドであったことは一度たりともなかった。彼らは「インスタント・コンポジション」という手法を用いて、ジャズ、エレクトロニクス、ワールドミュージックのチャンポン音楽を作り上げ、それは非常に革新的かつ刺激的であった。絶頂期には、メンバー同士まるでテレパシーのように繋がり、音楽を通して会話をすることができたという。バンド在籍時、彼は「人間メトロノーム」ことヤキ・リーベツァイトと共に最高のリズムパートナーシップを築き上げた。二人は共にCANのトレードマークである熱いグルーヴ、ユーモラスかつバンドの原動力となる繊細で淡々としたパルスビートを生み出した。

CAN脱退前の77年より、シューカイは磁気テープと短波ラジオを使った実験作品を次々と作り始めた。バンドの共同エンジニア、テープエディター、音の管理人としての彼の役割を論理的に展開してみせたのだ。テープの切り張りとラジオ音声への情熱が、彼のソロアルバム『Movies』の基本コンセプトを作り上げた。この作品でシューカイは世界中の放送電波を集めて、エーテルの中から音の断片を切り取り、それらを楽器演奏と組み合わせて、丁寧に編集された一連のモンタージュ・ソングを作り上げた。それはまさに80年代のデジタルサンプリングへの強い執着の予兆であった。『Movies』はラディカルかつ直観的に時代を先取りしたアルバムで、デヴィッド・バーンとブライアン・イーノの『My Life In The Bush Of Ghosts』に影響を与えた作品であることは間違いないだろう。

その後81年の『On The Way To The Peak Of Normal』の頃は、ケルンにて、庭に置かれた巨大TVアンテナと至る所に巻き付けられた何メートルにも及ぶテープの輪と共に籠って作業をしていたシューカイ。至近距離で録音されたボーカルは、アルバムを濃く、深く、(閉所恐怖症になるほど)奇妙に閉じたサウンドにしたが、逆に音楽は広々として清々しいものであった。まるで目の錯覚を音で表現してしまったかのように。気持ち悪い音のオルガンコードとかすれたボーカルが宙を舞い、シューカイとリーベツァイトの気味の悪いシャッフルリズム上をスライドする。未だ発明されてない、奇妙な匂いのする麻酔薬のための、不気味でエキゾチックなサントラのようだ。

『Der Osten Ist Rot (the east is red)』では、シューカイとプロデューサーで友人のコニー・プランクは、安価で高品質なデジタルサンプラー群の第一波であるエミュレーターをようやく使うこととなった。結果とても奇妙な作品になったものの、非常に過小評価されているのも確かである。まるで暴動が起こったかのような電子音響作品なのだ。中国のオーケストラ、ストリングスと軽やかなピアノの旋律がサウンドコラージュと似非エスニックドラムループの上を暴れまわり、一方でボーカルはダダ的プロパガンダを拡声器を使ってマシンガンスタイルのマーチングドラムと共に喚き散らしている。ところどころ、まるでシュトックハウゼンの元で学んでいた頃に戻ったかのような音がすると思うと、第二次世界大戦下での混乱の幼少期のフラッシュバックをも連想させる。狂ったような緊急放送か、またはラジオダイヤルをいじりながら音楽を探し耳にするものの意味を理解しようとする子供を思わせる瞬間が、このレコードにはある。

(表面的にはリズムと直線性に縛られたミュージシャンである)ベーシストとしてのシューカイは、正反対の獣であり、音楽的偶然性や、ランダムな音の挿入といったアイデアを楽しんでいるように思える。狂気性、突飛なアイデアや驚きを生きがいとして、常にコラボレーターやリスナー、そして彼自身さえをもあっと言わせることを楽しんでいるのだ。短波ラジオを用いたこともさながら、彼はディクタフォンを最初に音楽に取り入れた第一人者だし、アウトサイダー、非ミュージシャンや感覚的に優れた仲間たちと創作することを好んでいた。しかし、カオスと狂気の最中にも『Der Osten ist Rot』には「The Photo Song」が収録されている。ほぼ完ぺきなポップソングの小品だ。未だにまったく古臭さを感じさせない3分間の記憶の回想。

それ以来、シューカイは素晴らしいミュージシャンたちとコラボレーションを重ね始めた。ブライアン・イーノ、デヴィッド・シルヴィアン2、そしてジャー・ウォブル3。90年代になるとEDMにも進出し、U-SheやAir LiquideのDr. Walkerといったよりクラブミュージック寄りのミュージシャンたちとタッグを組んで、彼のテクノ・センスを表現していった。71歳になってもその勢いは衰えず、自主制作盤やコラボレーションを多数リリースした。時代が彼にようやく追いついたかと思えば、リスナーをあっと驚かせることもしばしばあった。ロンドンでは滅多にみることに出来ない彼のライブが、Short Circuitの主催でRoundhouseにて行われることと相なり、FACTは幸運にも彼とコンタクトをとることができた。実際のシューカイは、愛想がよく、暖かくて寛大な人物であった。それに彼がひとたび笑うとついこちらもつられて一緒に笑ってしまうような、そんな笑い方をする人でもあった。

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―音楽、または音に関する一番古い記憶はなんでしょうか。今のあなたのやっていることに通じるような幼少期の体験などあるんでしょうか?

そうだね。子供の頃初めて経験したのは教会音楽だった。戦後、私たちは東から逃げてこなければならず、当時音楽に触れられる場所といえば教会だけだったんだ。とても面白いと思ったよ。今の私の作品にもその影響はあるね。CANのギタリスト、ミヒャエル・カローリがよく言っていたよ。「何を弾こうが関係ないんだよ、ホルガー。巨大なゴミの塊にもなり得るけどさ、結局はいつだって教会音楽みたいになるんだから」ってね(笑)。

―聖歌隊とオルガンミュージック、どちらが好きでした?

そりゃもう、オルガンさ。合唱団って言うと思ったかい?そんなに好きじゃないのもあるんだけど、バッハのコラールには本当に衝撃を受けたよ。とても感動的だと思ったよ。

―あなたはグダニスク生まれで、第二次世界大戦の真っただ中を過ごされたと思いますが、間違いありませんか?

はい。今はポーランドになっているけどね、そこで生まれたよ。1938年。当時はオーストリアと併合していたね。戦争のことは鮮明に覚えているよ。住む家もなかったから、両親が音楽教育を受けさせてくれるわけもなかったよ。だから教会はとても重要だったんだ。ヴィルヘルム・グストロフを知っているかい?1万人を収容できる大型船で、第二次世界大戦の終わりにバルト海で沈んでいったんだけど。 あれは本当に酷い事故だったよ。タイタニックよりもずっと酷かった。1万人がロシア海軍の魚雷にやられてしまってね。私たちもその船の予約を取っていたんだ。でも乗らなかった。というというのも、祖母が「私は船は信じないよ。陸路でグダニスクから西へ逃げる道を探すんだ」と言ったからでね。 だからもし船に乗っていたら、今日こんな風に話すことだってなかったよ。

それからずっとずっと後になって、アマチュアのジャズバンドに入ることになったんだ。フェスティバルで演奏する予定だったんだけど、審査員が楽屋に入ってきて言うんだ。「悪いけど、君たちをどのカテゴリーに入れればいいのかわからないよ」って(笑)。

―アヴァンギャルド過ぎたんですかね?

あれをアヴァンギャルドとは言えないな(笑)。1959年とか、1960年とかだったかな。ド素人だったから(笑)。でもラッキーだったんだよ。フェスティバルからが追い出されたんだけど、彼らは私をラジオ局に連れて行ってくれてね。そっちの方がずっと良かった。まったくもってあの経験のおかげでジャズミュージシャンの道をあきらめたんだからね(笑)。

その後、アヴァンギャルドな男、シュトックハウゼンと出会ったんだよ。思ったね。「彼こそ自分が探していた人物だ!」って。 彼の下で勉強をしていたんだけど、68年にシーンが完全に変わって、突然新しいコネクションやアプローチを見出せるようになったんだ。当時私はリッチな女の子向けの私立学校の教師をしていだんだ。というのも、自分の音楽の好みじゃ、どう考えたって食っていけると思えなかったからね。だから結婚する必要があったんだよ!(笑)これはシュトックハウゼンの教えなのさ。彼がデュースブルクで『Gesang der Jünglinge4』を公演した時、オーディエンスの誰かがこう言ったんだ。「あなたは音で私たち観客にショックを与えている。こんなことをやっているのはあなただけだ。ということは、これで稼げますよ」って。 そしたら彼は「いやいや、私は音楽のためだけやってるのさ。お金はあるんだよ。金持ちの女と結婚したから。」(笑)だから、彼の下で勉強した後、リッチな女性がたくさんいるスイスに引っ越したってわけさ。金持ちの女とチャップリンが住んでる国にね。(笑)

私立の女学校で私はフランス語を教えていたんだ。笑顔で「ボンジュール」って言っていれば45分の授業で17スイス・フランもらえるんだから。こんないい仕事はないよ。でも私にとってはちょっと変な感じだったけどね。その学校の姉妹校で、マウントバッテン一族とプロイセン王子が生徒だった男子校にも行ったんだ。そこで授業をしてね。校長が生徒たちに「彼のことをどう思いますか? 雇った方がいいと思いますか?」って聞くんだ。その時とても才能のある生徒が1人クラスにいてね。ミヒャエル・カローリって名前なんだけど。彼が言ったんだ。「(子供っぽい声で)彼に先生になってほしい!」(笑)って。すぐに打ち解けたよ! その後、彼が学校を離れてからミヒャエルは私のところに来て一緒に住むようになってね、それからCANを結成したんだ。

―当時ミヒャエルは何歳だったんでしょう?

彼は18歳だった。クラスにいたときは13歳だね。彼は最後の試験を受けたあと、学校を辞めていった。そして私はクビになった。

―クビになったんですか?

そう。えーとその、魅力的すぎてね(笑)。でもノープロブレムさ。カローリ含め、生徒たちが私を当時のビートミュージックに目覚めさせてくれた。彼らが教えてくれたんだ。こう言うんだよ。「僕らと一緒にバンドやらない?」って。 だからスクールバンドを結成したんだ。私たちはトニー・アシュトン(ファミリー、アシュトン・ガードナー・アンド・ダイクのメンバーで、リック・ウェイクマンやディープ・パープルのジョン・ロードらとコラボレートした)とセッションしたりしてね。彼はレモフォー5のメンバーで、私とミヒャエル、トニー・アシュトンとレモフォーの何人かと一緒にレコーディングもしたよ。悪い出来じゃなかった。だからトニーに言ったんだ。「一緒にエクスペリメンタル・バンドを組もう!」って。 トニーはその時すごく酔っぱらっててね、「イェス! その、もちろんだよ!…それで!?」(笑)。トニーはとても面白いやつだったけど、私の言うエクスペリメンタル(実験音楽)という意味がよくわかっていないようだった。それで結局は疎遠になっていって、CANに加わることはなかった。

CANでイギリスツアーしている時、ロンドン出身のローディが同行していて、休みの日にこう言ったんだ。「よ~し! ジョージ・ハリスンに会いにいっちゃいましょう! いやいや、彼は本当にいい人でね。アスコットに住んでいて、ドライブするにも最適ですよ」って。 それで彼を訪ねることになって、ドアベルを鳴らしたんだけど誰もいなくて。突然彼が鍵を取り出してドアを開けるや否や「ちょっとおじゃましちゃいましょう!」。 中に入るとテレビは付けっぱなしになっていて、私は誰かが入ってくるような気がして、「早く! ジョージ・ハリスンが戻ってくる前にここを出るんだ!」。そしたら彼は「いやいや、彼が鍵をくれたんですから、心配ないですよ!」(笑)。それから二か月後、同じことが起こったんだよ。「ジョン・ロードに会いにいきましょう!」。 でもジョンはそこにはいなかった。私はみんなを訪ねに行ってるけど一度として会ったことないんだよ(笑)。

―私が面白いと思ったのは、例えば「Cutaway」のような、カットアップやコラージュのような手法を用いたCANの作品です。これはジョン・ケージ6から来てるんでしょうか? ケージの影響はあったんでしょうか? 彼に会ったことはありますか?

うん、会ったことあるよ。でもシュトックハウゼンに比べると、それほど親しかったわけじゃないど。シュトックハウゼンはコラージュが嫌いだったから。私は彼の言うことをとても真面目に聞いていたからね。ケージの作り出す音楽は本当に素晴らしいよ。彼がどれだけ音楽を未来へと導いたことか。CANが向かおうとしていた方向には、特にね。CANは、シュトックハウゼンの作品で嫌いなものがいくつかあってね、死ぬほど悪く言ったこともあったよ。でも私は知っていたんだ、彼は扉を開こうとしていたんだって。

一度彼が私にこう言ったことがあってね。「シューカイ、君は考えすぎなんだ。勘違いするんじゃないぞ。君が楽譜を書く時に、どれだけの疑問を音符に記しているのか私にはわかっているよ」。 彼が敬愛していた作曲家がいてね、その作曲家は自身の作品に対して強く疑問を持ち続けていて、最終的に行き詰ってしまったんだ。だから彼は私にこう言ったんだ。「自分自身の道を見つけるためには、時には壁を乗り越えていく必要もあるのさ」。 それから、彼の下で勉強をし始めて3年目の年に彼が突然こう言った。「鳥は飛べるようになったなら、巣立っていくものさ」。 それから4週間後、私は巣立つことに決めたんだ。シュトックハウゼンの教えは私の中にあったさ。だからこう考えたんだ。「よし、金持ちの奥さん捕まえなきゃな」って(笑)。

―あなたの音楽的トレードマークの一つに、フレンチホルンがありますね。初めて習ったのはいつなんですか?

とてもシンプルさ。店に行ったらフレンチホルンがあったんだよ。値段を聞いたら「ホルガー、私たちの店で買い物なんかする必要ありませんよ。これはプレゼントです」って言うんだから(笑)。ジャー・ウォブルとレコーディングしていたスタジオにすぐ向かって、吹いてみたよ。これまでで一番いい演奏だったと思うね。

―それまで一度も吹いたことなかったんですか?

一度もないよ。ソロを吹いた「Trench Warfare」の録音がベストだったね。

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―あなたはフレンチ・ホルンを、まるでダダのように、派手に吹いていましたね…。

ダダっていうのは私のアプローチとは少し違うんだけど、でもランダム性を用いているとは言えるだろうね。クラシックの作曲家っていうのは音楽を探しているんだけど、彼らが気づいていないのは、音楽ってのは自分自身を探しているってことなのさ。68年以降、人はそういうことに気づき始めたんだけど、ケージはずっと前からそれに気づいていたんだ。でもね、フレンチホルンは一度も練習したことないからね、5分だけしか吹けないんだよ。すぐ唇が痛くなるから(笑)。

―CANの解散が近くなると、ベースから短波ラジオの方へ移行しましたよね。ライブではどんな風に演奏していたんでしょう?

短波ラジオは、言ってみれば予測できないシンセサイザーなのさ。瞬間毎に何が飛び出してくるかわからない。いつだって予想は裏切られるし、それに対して瞬間的に反応しなければならない。このアイデアは、またしてもシュトックハウゼンのものさ。『Short Wave (Kurzwellen)』っていう作品を彼は作っていてね。ミュージシャンたちが音楽、というか居場所というか、なんでもいいんだけど、そういうのを探しているのはわかるんだけど、そこで彼はそのど真ん中に座って、音が彼の手の中に入ってきて、そこから音楽を作り出すんだ。彼はそれをライブでミックスするんだよ。そしてライブで作り上げる。プランはあるんだけれど、そのプランがどうなるかはわからないんだ。CANでは、バンドメンバーがプレイしたものを私がミックスするんだ。私たちはシンガーを探していたけど、見つからなかった。何人もオーディションしたけど、見つけられなかったんだ。そこでこう考えた。「代わりに、ラジオで誰かを探してみるのはどうだろう? ラジオの中の人物にはこちらの声が聞こえないけど、私たちは聞こえるじゃないか」。

―その時ラジオは1台だけだったんでしょうか?それとも複数?

1台だけだ。エフェクトもかけずに、そのままで。ラジオにはVFO、いわゆるオシレーターが備わっていて、単側波帯、つまり波の半分だけを受信できて、それを解読できるんだ。リングモジュレータみたいなものだね。それだけで十分なのさ。CANの他のメンバーも、こういった楽器の予測不能な使い方に対してとてもオープンだったからね。特に初期は。

―『Future Days』、『Soon Over Babaluma』の頃にバンドの音は更に濃く、ドロドロした感じに変わりましたよね。まるで別次元のように。何がそうさせたんでしょうか?レコーディングの機材が変わったんでしょうか?

えーと、引っ越したんだよ。レコーディングスタジオがあった城から、古い映画館に。今そこから話してるんだよ7、CANの昔のスタジオの、インナースペースから。それからミュージアムに代わってしまったけどね。部屋は完全に空っぽだったんだよ。ここには何もなかったんだ。それから私のパートナーのウルサ・マヨールが「スタジオをまた持たなきゃだめ」って言ってね。 それから彼女が新しく、素晴らしいスタジオを作り上げたんだ。もう家には帰りたくないね。ここにいたいよ(笑)。

―ロンドンのShort Circuitではどんなことをされるのか、少しお話いただけますか。1968年のアルバム『Canaxis』から演奏されるんでしょうか?

新しくリミックスし直したんだよ。古い素材を全部取り払って、特別なバージョンを作ったんだ、ロンドンのためだけに。CANの未発表の作品にも同じことをしたよ。CANの68年の素材だね。全部未発表のものだ。

―『Canaxis』のセッションは…それってケルンのWDR (Westdeutscher Rundfunk – “West German Broadcasting”)スタジオで録音されたもので間違いありませんか? 当時シュトックハウゼンも『Hymnen』の制作でそこを使ってましたよね?

あぁ。私たちも鍵を持っていたから、シュトックハウゼンが家に帰ってから、また全部に電源を入れてたんだよ。スタジオに入って、『Canaxis』は一晩で作ったんだ。メインの曲である「Boat Woman Song」は一晩で完成した。自宅で準備してて、自分が何をしたいかも全部わかっていたから、4時間で全部完成したよ。

―デヴィッド・ジョンソン8について興味があります。彼はレコーディングにおいてサポートされたりしたんでしょうか?

あぁ、私を助けてくれたよ。彼は私よりスタジオのことを少しだけよく知ってたからね。エンジニアとして、スイッチのオン/オフ、録音のダビングなんかしてくれてね…ちゃんとやってくれたよ。4時間で全部終わったから。デヴィッド・ジョンソンはミュージシャンとして、CANで自分自身を試していたんだけれど、CANのコンセプトにはあまり納得がいってなかったんだと思う。彼はフルタイムのメンバーであったことは一度もないし、CAN以降、彼のキャリアの中でロックミュージックは一切やらなかったね。彼は20世紀の音楽の作曲的な方面に対して、もっと「真剣に」取り組んでいたよ。

―「真剣さ」というのをあなたが言うのが面白いですね。あなたの音楽からは、素晴らしいユーモアと無邪気さと、それに美しさが感じられます。音楽制作というのは、一種の「遊び」の形であると同時に、真剣な取り組みでもあるんでしょうか?

イェス、もちろん真剣だよ。でも一方で、遊んでいる時は真剣にはやってないよ。始めは、私が遊んでいようが、誰かが遊んでいようが関係なかったんだよ。でもしばらくしてから、素材に対してどう向き合うかがわかったんだ。作曲と校正を覚えたからね。でもね、私は音楽のエキスパートではないんだ。すごいピアニストでも、すごいギタリストでもないんだよ。でもその楽器を触れば、どういうわけか何をすればいいのかがわかるんだ。どうすればいいのかがわかる。ジ・エッジ9と一緒に作品を作ってる時のことで、彼が後にインタビューで答えてたんだけど。当時…今はもう変わっちゃってるかもしれないけど、彼に影響を与えたギタリスト二人っていうのが、BBキングと、私だっていうんだ。何故だろうと思ったよ。 だって私は本当にギターは弾けないから。彼は私なんかよりずっとずっとうまく弾くんだ。でも、多分どういうことかというと、私は楽器を手にした瞬間に、何かはっきりしたものがそこから伝わってくるのをいつも感じるんだ。

―あなたはベーシストとしての方がよく知られてますが、あなたのギタースタイルはとてもユニークですし、すぐあなただってわかります。なんというかアフリカンな感覚があるんですよ。トーンやスタイルがハイライフ10的といいいますか。西洋的なプレイスタイルではまったくないですよね。

あぁ、君の言うことはわかるよ。それは音のせいさ。速く弾いたりしないし。アフリカのリズム的な影響よりも、単音をより重視してるからね。CANではミヒャエル・カローリがハイライフとかが好きだったね。確か彼はコンゴのキンシャサで勉強してたんじゃなかったっけな。確か1973年のことだったと思う。私たちはロンドンのトップテンを紹介するような番組に出ることになっていたんだけど、ミヒャエルはどうしてもアフリカで参加できなかったんだよ。だから私たちはギタリストを探してきて、ミッキー・カローリ風に服を着させてね。彼が本物じゃないってことがカメラにバレないように祈ってたよ(笑)。

―じゃあCANは偽ミヒャエル・カローリと演奏したわけですか?

そうだよ! 絶対見逃したくなかったね!(笑)

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脚注

  1. Karlheinz Stockhausen: 数々の現代音楽家の他、CANメンバーのイルミン・シュミット、クラフトワークのメンバー、クラウト・ロックと呼ばれる作品の数々を手掛けた名プロデューサーのコニー・プランク等もシュトックハウゼン門下生。ドイツ国内のみならず、シュトックハウゼンの影響を受けたミュージシャンには、フランク・ザッパ、ピンク・フロイド、ジェファーソン・エアプレイン、グレイトフルデッド、ビヨーク等々挙げたらきりなし。
  2. David Sylvian: Japanのボーカル。
  3. Jah Wobble: ジョン・ライドン率いるPiLのオリジナルベーシスト。
  4. 1955~56年に初めて演奏された、シュトックハウゼンの電子音楽作品。タイトルは「Song of the Youths(若者の音楽)」の意。「電子音楽の最初のマスターピース」と言われている。
  5. Remo Four: ビートルズと同世代のリバプールのバンド。
  6. John Cage: アメリカ出身の現代音楽の巨人。
  7. 電話インタビューを受けているの意。
  8. David Johnson: アメリカ人作曲家で、シュトックハウゼン門下生の1人でもあり、彼が設立したケルン現代音楽講習における電子音楽の講師の1人でもあった。前述のシュトックハウゼン『Hymnen』制作時アシスタントを務めた。1968年のCAN結成時はメンバーの1人だったが、ロック的なアプローチを好まず1969年に脱退。『Canaxis』の制作に参加。
  9. The Edge: U2のギタリスト。
  10. 20世紀初頭、大英帝国の植民地時代の(現在の)ガーナから始まり、西アフリカで流行った音楽スタイル。現地のリズム/メロディが西欧の楽器を使って奏でられる。
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