イアン・マッケイ 「ヘンリー・ロリンズとの友情」(2011)

USハードコアシーンの重鎮2人がティーンエイジャー時代からの親友同士というのはなんとも運命的。イアン・マッケイは1962年、ヘンリー・ロリンズは1961年にそれぞれ生まれ、共にパンクと出会い、同時期に音楽キャリアをスタートさせます。そんな彼らの関係性をイアン・マッケイがなんとも真っすぐに語っています。

ブラック・フラッグ加入後のヘンリーの流れを補完するのには、こちらのブラック・フラッグ史をどうぞ。

Black Flag performing at Mi Casita in Torrance, California, 1983 &#x...

こちらの記事は2011年にONTD Live Journalに投稿されたものの和訳です。原文はこちらから。

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私はイアン・マッケイ(マイナースレット、フガジ、ディスコードレコーズ)と、彼の古くからの友人であるヘンリー・ロリンズ(ブラックフラッグ、ロリンズバンド、その他諸々)の関係について、長い間興味を持っていた。パンクロックカルチャーと音楽に多大なる影響を与えた二人が若い頃から友人だったなんて、ちょっと驚きだ。もっと詳しく聞いてみたいと思い、イアンに時間を作ってくれるか連絡を取ってみたところ、快く承諾してくれた。ヘンリーからの話も聞いてみたいところだが、それはまた次回。

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―ヘンリーのことで覚えている一番最初の思い出はなんですか?

DCのグローバーパークってところで、近所同士だったんだ。俺はビーチャーストリート、彼は2ブロックくらい離れたWストリートに住んでた。今だから言うけど、WストリートにBBガン持ってるヤツがいて、当時BBガン持ってるヤツなんて知らなかったから『フォーァ、このマザー〇〇ッカーをチェックしなきゃな!』って友達と話してさ。そいつの家まで行ってドアをノックしたら、そこにいたのがヘンリーだった。俺より少し大きかった。彼は12歳で、俺は11歳。彼はべっこう縁の眼鏡をかけてたよ。友達と『なあ、お前BBガン持ってるって聞いたけど』って言うと彼は「あぁ」って。ヘンリーはカギっ子だった。彼の両親は離婚してて。母親は働いてた。だから彼はいつも誰もいない家に一人で帰ってたんだ。それから彼の家に行って遊ぶようになったんだ。彼はライフルとピストル型のBBガンを持ってて、地下には小さい射撃のセットがあった。溝の入ったシガーボックスがあって、ポーカーチップの的が付いてた。その後ろには壁を傷つけないように大きな発泡スチロールがあって。あんまり効果なかったんだけど。数年前ヘンリーがその地下室に行ったら、まだ壁にBB弾の痕が残っていたみたいだね。

俺らはエアロスミス、レッドツェッペリン、チーチ&チョンのレコードを聴いてたよ。あれは1974年だった。彼はめちゃくちゃクールなヤツで、多分少しナーバスだったんだけど、彼のことはそこまで知らなかった。

それから俺は一年間そこを離れたんだ、父親にスタンフォード大学の研究員奨学金が出てね。カリフォルニアに9カ月住んでた。俺が居ない間に仲のいい友人の一人とヘンリーが喧嘩してさ、俺が帰ってきたら、その煽りを食っちゃったんだ。彼はいつでも俺らをブチのめそうとしてたから、翌年はヒヤヒヤしながら過ごしてたよ。一回彼に捕まっちゃって壁にブン投げられた時、マジでやばいヤツだと気づいたよ。

それから友達と俺とでスケートし始めたんだけど、ある日彼がスケートやってるのを見て、『おぉグレート!このサイコ野郎、いまやファッ〇ンスケートボーダーかよ!』って思ってさ。俺の家の裏の路地にランプを作ってたんだけどさ、ある日彼がやって来て「ランプで滑っていい?」って聞くから、『いいよ』って。それからまたつるむようになったんだ。

ある時期、いつもヘンリーが俺に仕事を紹介してくれていたんだ。ヘンリーがペットショップで働けば俺にも紹介してくれて、映画館で働けば俺にも紹介してくれて、スケートショップで働けば俺にも紹介してくれて、ハーゲンダッツで働けば俺にも紹介してくれて。だから俺らはすごく長い時間を一緒に過ごしたんだ。

それから、彼の母親が彼を家から追い出した時は俺の家で寝泊まりしてたんだ。彼の荷物も全部そこに置いてたんだけど、俺の母親が「あなたこれなんとかしなさい」って言ったら、彼はしばらく自分の車の中で寝泊まりしてさ、それから程なくして俺の家に戻ってきたんだけど。

俺らはパンクロックにも同時にのめり込んでいった。初めてライブに行った時、彼は来なかったんだけど。ちょっと疑い深かったんだよ。あれは1979年の2月、クランプスのライブだった。それから二週間後にクラッシュのライブに行って、ヘンリーも一緒に来たんだ。完全にぶっ飛ばされたよ。

俺はウィルソン高校の友人と一緒にティーンアイドルズを結成して、ヘンリーは俺たちのローディーだった。彼を5人目のアイドルって呼んでたよ。ツアーもしたことないのに「ローディー」がいるなんて笑っちゃうけどね。

ワシントンの外でライブをしたことなかったんだけど、1980年の7月にカリフォルニアでライブを二回やることになった。行き帰りにグレイハウンドバスを使ったよ。あそこまで行くのに4日もかかって、しかもローディは1人じゃなくて2人もいたんだからね!ヘンリーと、マーク・サリヴァンがローディーだった。ギターとドラムスティックしか持ってないのにローディーがいるなんて、本当に馬鹿らしいことだって気づくのに何年もかかったけどね。ただ俺たちみんなカリフォルニアに行きたかったんだ。その年の暮れにティーンアイドルズは解散して、俺はマイナースレットで歌い始めた。ヘンリーはS.O.A.をまったく同時期に結成した。彼はいつでもバンドで歌いたがってたんだ。実際ティーンアイドルズの練習でも歌ってたし、歌詞も沢山書いてたし、そりゃそうだよね。俺らのバンドは一緒になって、ライブもよく一緒にやってたし、同じイベントに呼ばれたりもしてた。当時はライブが強制的に終了されることも珍しくなかったから、警察がやって来る前に少しでも多く演奏できるように、二組ともわざとオープニングアクトで出るようにしてたんだ。

1981年の5月か6月に、ヘンリーに呼ばれたと思ったら「誰が次のブラック・フラッグのボーカルになると思う?俺さ」って言うんだ。何がなんなのかさっぱりわからなかったよ。どうやら1人でニューヨークに行って、オーディションを受けて来たらしかった。その時確か「ブラック・フラッグは俺に歌って欲しいみたいなんだけど、俺には無理だよ」って言うから、『何言ってんだよ。君がやったらスゴイことになるよ』とかって彼に言ったんだと思う。あんまり覚えてないけど。

デズがギターに専念したいっていう話を聞いて以来、誰が次のブラック・フラッグのボーカルになるのか俺らもずっと気になってたから。確かフリップサイド・マガジンが、誰が次のボーカルになるかっていう噂話を記事にもしてた。ただバンド側からは何も発表がなくて。まさか国中を回ってボーカリスト探してたとは思わなかったよ。ニューオリンズのスラッツってバンドのディー・スラットってやつをオーディションしたって話を聞いたのは覚えてる。他に誰がオーディションしたのかは知らないけど、どうやらかなりの数の人と話をしてたみたいだ。彼らはニューヨークにリハーサルスペースを借りて、ヘンリーにオーディションを受けたいかどうか聞いたんだ。彼は夜中の2時に仕事を終えたら車ですぐにニューヨークに向かって、終わったらそのまま帰って来て翌日の仕事に出た。多分バンドは彼とセッションした後、彼がいいなら入ってもらおうって話してたんだろうね。俺には何があったのか全然見当もつかなかったから、彼に呼び出されたときは何がなんだかよくわからなかった。誰が次のブラック・フラッグのシンガーになるか聞かれた時には、きっとL.A.のヤツなんだろうと思った。彼が次のシンガーになるって聞いた時は、驚いたなんてもんじゃなかったよ。めちゃくちゃ焦ったけど、マジで最高に嬉しかった。

―ヘンリーがあなたの音楽のファンであったことは、あなたにとってどれ程重要だったんでしょうか?

えーっと、それどういう趣旨の質問?もちろん俺のやってることを彼にも気にいってもらいたいと思うよ。彼は友達だし。でもだからといっていつでも彼を意識しながらやってるってわけじゃないから。一時期彼からまったくよく扱われなかった時もあったけど。覚えておいてほしいのは、1981年に彼は街を出て行ったんだ。この6月で彼がワシントンを離れてから30年になる。彼が街を出た時に俺らの関係も変わったんだ。それは地理的な理由でね。いつも一緒にいるのと、いつも一緒にいないのとでは関係性も違ってくる。よくあるのが、自分が何かやっている時に、関わりのない人が俺らに対して反対意見を持って介入してくると、『そうか。君がいてくれたらいいんだけど、残念だよ』ってなるよね。それか彼らはそもそも介入してこなくて、それが反対の意思を表していることもあるし、もしくは彼らは彼らでやってることがある場合もある。ヘンリーの場合自分のことで忙しいのはもう明らかだよ!世界で一番忙しい人間の一人さ。ヘンリーはこれまでもの凄い量の仕事をやってきてるし、彼のやってることを知ろうとして連絡取ろうとしても、全然追えないし、彼のやったこと全部なんてとてもチェックしきれないよ。それどころか、彼が俺の仕事をちゃんとチェックしてくれてるのに比べて、俺は彼のことをそれほどチェックできていないしね。彼は本も書くし映画にも出ている。彼が出演している映画1があるのに、俺は彼が出ていたことすら知らないんだよ!実際先日何人かと話してて、彼らが「君の友達のヘンリーがVerizon2のCMの声やってるよ」って言って、『マジかよ!?』って。笑っちゃうよね、だってテレビ見ててVerizonのCMが流れてるのは覚えてるのにさ、それがヘンリーの声だったなんて。全然気づかなかったよ。その後彼に『ワォ、VerizonのCMの人だ』って言ったら彼は「あぁ、マジでクールだよね」って。(おそらくこれ?)

―国の反対側で活躍しているパンクバンドの友人がいるということは、あなたのパンクに対する視点をどの様に変え、広げましたか?

まずはじめに、ヘンリーはパンクバンドにいたんじゃない。ブラック・フラッグにいたんだ。

俺らとブラック・フラッグとの付き合いは、俺が(チャック・)ダコウスキ3を呼んだ時から始まったんだ。スラッシュマガジンとフリップサイドに、SSTの広告と電話番号が載ってて、その番号に掛けたんだ。チャックが出て、それから友達になった。彼と電話で沢山話したよ。それと覚えておいてほしいのは、俺はケヴィン・セカンズ4と(ジェロ・)ビアフラ5とも友達だったからね。他の地域のパンクシーンで活動している友人がいることは、間違いなく俺に影響を与えた。まるで戦友を見つけて、そこに向かう理由があったみたいにね。もしワシントンから西の方にドライブしてレノに知り合いがいるのなら、止まらなきゃだめだよね。初めて成功したマイナースレットのツアーは1982年だった。そのツアーのルートが当時付き合いのあった人物を示しているよ。ワシントンからSSD6のいるボストンに行って、それからネクロス7のいるランシング、それからレノ。結構大変な道のりだけど。レノからサンフランシスコにいって、そこからロサンジェルス。ロサンジェルスからビッグボーイズ8のいるオースティンに行って。だから、各地方に知り合いがいるってことは、何かに関わっているような気持ちにさせる、だって実際に何かに関わっているんだから。

ヘンリーに関しては、彼はDC出身でカリフォルニアによく行ってた人間だから、彼の視点はなかなか面白いんだよ。俺らはLA音楽のすごいファンだったんだけど、彼は「おい、こいつウィアドーズ9のやつだ、観たことあるよ!」とか、あいつに会ったことあるとか。でも同時に彼は大きな過渡期を迎えていて、ものすごいプレッシャーを感じていたんだ。彼はDCからやってきた新人で、でも既にカリフォルニアでは伝説的な人物になっていた。みんなDCシーンのことは聞いていたから、ブラック・フラッグがわざわざワシントンまで出向いて加入させた人物がどんなヤツなのか知りたがってた。

それに、音楽にとっても過激な時代だったんだ。本気の抗争がたくさんあったから、ヘンリーもそこから抜け出すために戦わなければいけなかった。一方でバンドは警察と色々と揉めていたから、それはそれでヤバい状況下にあって。精神的にキツいことがしょっちゅうあったから、いつも本当に大変だったと思う。だから『おぉ、ウィスキー10見たんだ』とかさ、そんなこと話せるのはすごくクールなんだけど、一方で彼は変わっていったんだ。でも変わらなきゃいけなかった。ここに住んでいた頃はヘンリー・ガーフィールドだったけど、状況が落ち着いた頃にはヘンリー・ロリンズ11になっていた。

―ではここで、何年も、離れていても、いい関係を維持するために何かアドバイスはありますか?

友人や知り合いっていうのは、兄弟や親とそれほど変わらないと思うんだ。どういう意味かというと、彼らとは本来血の繋がりがあるわけで。選ばれたんだけど、でも俺にとっては似た者同士なんだ。俺だって馬鹿じゃないし、もし誰かを気に入ってその人の魅力を知っているのなら、きっと理由があるはずだよね。

どういうことかというと、兄弟姉妹みたいに、人は色々なところを転々として、たとえ悪いことをしたとしても何も変わらないんだ。友達は友達。俺のドアはいつでも開いている。ヘンリーと友人になって40年弱経つけど、今まで以上に親しい関係であると言えるよ。誰とでもこう上手くいくわけじゃない。それが友情さ。誰かにこんな風に言うかもしれない。『君ってマジで変だよ、でも最高に変な友達さ。ずっとこうして仲良くやってきたんだ、お互い大変なことがあっても、うまくやっていこうぜ』って。

鏡をのぞくと自分は反転して見えるけど、友達は自分たちのことを正しい方向で見ているわけで、そんな人を持つのは俺らの人生にとってすごく大事なことだよ。


2019年現在、ヘンリーはKCRWというラジオ局で番組を持っており、2017年と2018年にイアンをゲストに招いています。

2017年の第421回では、彼らが一緒にライブを体験したバンドからの選曲。ちょうど上記のインタビューで語っていた時期の話をしています。

2018年の第497回はイアンの持ち込み企画。ヘンリーがブラック・フラッグに加入後、1981年に初のUKツアーに行った際にイアンはローディとして同行。ふたりで当時のことを思い出しながら、81年のバンドの曲などをかけるという内容。

もちろん全編英語ですが、50を過ぎてもなお仲睦まじい2人と、彼らのルーツをうかがい知ることのできる貴重な回なので、是非聴いてみることをおすすめします。

以下はそれぞれの回へのリンクと、ヘンリーの解説文の一部を訳したものです。ウェブサイトに飛べばプレイリストも見れます。


KCRW Broadcast 421: Henry Rollins and Ian MacKaye Look Back
2017年4月23日

…ファナティック。今回のショーは最高の回になる。ゲストはワンアンドオンリー、イアン・マッケイだ。

数週間前に2人で電話してたんだけど、彼がLAにいる間に一緒にショーができないかって尋ねてきたんだ。覚えている人もいるかもしれないけど、以前もやったことがあってね、いつだっていい時間なんだ。数日前に(ラジオで掛ける)トラックを送ってきて、どれも最高だった。なぜこれを選んだかを聞いたんだ。彼は、これらは俺らが一緒にライブを見たバンドの曲だって言うんだ。最高の音楽と、素晴らしい話にはもってこいだね。

…どうかイアンと俺のショーを聴いてみてほしい。彼は自分が会った人々の中で最も面白い人物のひとりで、彼とは素晴らしい思い出がたくさんあるんだ。だから、今回もいい回になるよ。…

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KCRW Broadcast 497: Ian Mackaye
2018年6月3日

ファナティック!今回はスペシャルなショーだ。これはすべてイアンのアイデアなんだ。1981年の12月、ブラック・フラッグがイギリスにツアーに行った時のことを、彼と俺で思い出したらクールなんじゃないかってね。最高の時代ではないけれど、素晴らしい話は生まれたね。

今年、イアンがコーチェラのためにここに来て、ある晩俺を訪ねてくれたんだ。エンジニアXがマイクを持ってきて、そこでふたりで彼にこのストーリーを語ったのさ。Xがその音源を自分のスタジオに持って、編集してKCRWに送ったってわけなんだ。

イアンには、このアイデアを持って訪ねてきてくれたこと、時間を取ってくれたことに感謝したい。エンジニアXには、2時間の放送時間を守ってくれたことに感謝だ。エンジニアAm-Rockには、放送局から君に届けてくれることに感謝する。

ショーを楽しんでくれ!

可能な限りアナログで行け、そしてファナティックであれ!

脚注

  1. Vice Japanの素晴らしいまとめ「ヘンリー・ロリンズの俳優人生を振り返る」に詳しい。
  2. ニューヨークの大手電気通信事業者。
  3. ブラック・フラッグの初期ベーシスト。
  4. Kevin Seconds: 7 Secondsのギタリスト兼シンガー。
  5. Jello Biafra: デッドケネディーズ Dead Kennedys のシンガー。
  6. Society System Decontrol ソサエティ・システム・デコントロール: 1981年~1985年まで活動していたバンド。1st LP『The Kids Will Have Their Say』は自身のレーベルX-ClaimとイアンのレーベルDischordからのスプリットリリースだった。
  7. Necros: 1979年~1989年まで活動したバンド。ベーシストのコリー・ラスクはTouch and Goの設立者でもあり、バンドの1st EP『Sex Drive』は同レーベルの最初にリリースになった。
  8. Big Boys: 1979年~1984年まで活動したバンド。ファンク要素をハードコアパンクに持ち込んだバンドと言われており、レッチリもその影響を受けているとのこと(レッチリはビッグボーイズのオープニングも務めている)。さらにスケートパンクシーンを作ったバンドのひとつでもあり、バンドのスケートボードもあった。コンピレーションアルバム『The Skinny Elvis』と『The Fat Elvis』には、イアン、ヘンリーの他、J・ロビンス、スティーヴ・アルビニ、サーストン・ムーアなどそうそうたる顔ぶれが寄稿。
  9. The Weirdos: 1976年~1981年まで活動していたLAのバンド。
  10. LAにあったライブハウスThe Whiskeyのことかと思われる。
  11. ヘンリーの本名はHenry Lawrence Garfield。ブラック・フラッグ加入後にステージネームとしてロリンズを名乗り始めるが、これはもともとイアンとヘンリーが10代のころに嘘の「脅迫文」を書いたノートを交換し合っており、その脅迫文の差出人が「Rollins」という名前のキャラクターだったことに由来するそう。ソース
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