ヤキ・リーベツァイト インタビュー (1999)


ヤキ・リーベツァイト(英語読みでジャキと表記されることもあり)は1938年、ドイツ生まれのドラマー。CANの他、NEU!のミヒャエル・ローター、ブライアン・イーノ、デヴィッド・シルヴィアン、Phewなどとも共演してますね。個人的にも大好きなドラマーの一人です。下記は1999年にリリースされたCAN BOX BOOKに掲載されているインタビューの和訳です。

ご存知の方も多いかと思いますが、事前にインタビューの補足としてCANの簡単なバイオグラフィーを紹介しておきます。

CANの中心メンバーは:
イルミン・シュミット(Key)
ホルガー・シューカイ(B)
ヤキ・リーベツァイト(Dr)
ミヒャエル・カローリ(G)

アーティストのマルコム・ムーニーがシンガーとして1968年~69年末まで在籍。70年の5月、ホルガーとヤキが路上でストリートパフォーマンスをしていた日本人ヒッピー、ダモ鈴木に声をかけてその日のライブに参加。そのままシンガーとしてバンドに加入し、73年まで在籍。74年からミヒャエルがヴォーカルを兼任する形でしばらく活動。77年に元トラフィックのベーシストのロスコ・ギーと、パーカッショニストのリーバップ・クワク・バーが加入。ホルガーはベースから短波ラジオなどを使ったエクスペリメンタル・サウンドを担当しますが、77年の後期にバンドを脱退。79年にバンドは解散。その後、89年にマルコムも参加した再結成アルバムを1枚リリースしています。

録音時期の順番でディスコグラフィを並べると以下のようになります。かっこ()はリリース年です。

~マルコム期~

Delay 1968  (1981)
Monster Movie (1969)

~ダモ期~

Soundtracks (1970) (マルコム期の録音も収録)
Tago Mago (1971)
Ege Bamyasi (1972)
Future Days (1973)

~4人編成期~
Soon Over Babaluma (1974)
Landed (1975)
Flow Motion (1976)

~6人編成期~

Saw Delight (1977)

~ホルガー抜きの5人編成期~

Out of Reach (1978)
Can (1979)

~再結成~
Rite Time (1989)

一般的には『Future Days』までが最盛期と言われていますね。

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CANの中のゴースト

―他のCANのメンバーたちに曲作りに関して尋ねると、いつもこう言われるんです。「すべてグルーヴで決まる」って。そして今回あなたに来ていただきました。

グルーヴ、リズム、っていうのはいつだって音楽の基礎だからね。だから今にして思うと、きっとこれだけは、そういうことだと思うよ。まずフォームが音楽の基礎を作って、それから色付けされていくんだ。思うにそれってすごく自然なことだしね。

―CANの一枚目のマジックは、あなたとマルコム・ムーニーのリズム隊によるものだと思いますが、彼と演奏することに個人的にある種のプレッシャーを感じたりされますか?

プレッシャーは感じないよ。でもマルコムの声から表現されるリズムセンスは信じられないくらい強力だよ。声からそんなリズムを作り上げられる人物なんてほとんど会ったことないよ。声とドラムのコンビネーションはとても独特なんだ。あんな体験は他ではしたことないね。

―あなたのバックグラウンドにはフリージャズがありますね。CANでの体験はあなたにとってまったく別ものだったのではないですか?

意図的にフリージャズから遠ざかったんだよ。最初は普通のジャズを演奏していて、そこからフリージャズに移行していったんだけど、ある時に自分の中で終わってしまってね。そこから何をすべきか。フリージャズ以上にフリーなものはなかったから。でももうフリージャズを演奏したくなかった。もう一度リズムを演奏したかったんだ。それから完全にジャズから脱却して、以来その手の音楽は一度も叩いてないよ。

―フリージャズで養った経験というのはCANで活かすことができたんですか?それともまったくの別物で、一から作り上げたんですか?

いいや、フリージャズを演奏する前からリズムには興味があったから。60年代初頭にはインドやアラビアン音楽を聴いていたんだ。世界中の音楽にいつだって興味があったからね。スペインに2年ほど住んでいたんだ。フラメンコからはリズムに関して多くを学んだよ。でもそれからドイツに戻ってきて友人と会ったんだけど、みんなジャズをやっていた。彼らに、君のリズムはもう古いって、そんなのはもう誰もやっていないし、今さら誰も評価しないって言われてね。何も言い返せなかったんだ。グチグチと反発したところでオーディエンスを見つけられなかったし。それで2年間フリージャズをやってたんだけど、ある時興味がなくなっちゃったんだ。これって全然フリーじゃないなと思って。単純に、制約が多すぎるんだよね。反復リズムは禁止だし。というのは、すべての音符はイコールである、というシェーンベルグ、ヒンデミット論理的なものに倣っているんだけど。それによってもちろん多くの影響があってね。オクターブは重視せず、ハーモニーにルールはなく、リズムに関してすべての音符はイコールである。反復というものはない。でも、反復はすべてのリズムの基礎だよね。もしパターンを変え続けていたら、それはリズムじゃなくてノイズだよ。CANを始めた時、一から戻ってまた最初からスタートできる、スタートしなきゃいけないと思ったんだ。出来る限りシンプルに。それはそんなにうまくはいかなかったけど、でも少なくとも、本来のスタイルをゆっくりと取り戻していけたと思うよ。

―音楽制作において、バンドはどのようにして取り組んでいたんでしょうか?

リズムを基本にして作っていたよね。メンバー全員音楽的な想像力を持っていたから。自分の場合、音楽の型や構造に関してはジャズを通して多くを学んでいたからね。速い遅いではなくて、厚いか薄いかなんだ。その後、また別のタイプの音楽をやる時にとても役に立った考え方なんだけれど。速いか遅いか、という考え方はもうしなくなってね、厚いか薄いか、ということなのさ。

―興味深い解釈ですね。というのも、CANの曲はその密度の濃さで変わってきますから。例えば『Saw Delight』は恐らく最も濃厚な作品だと思います。しかしより密度の低い、より薄い作品の方が面白いんですよね。

多分そうだと思うよ。何かを生かすためにはスペース(間)を置くしかないんだ。逆にフィルを多く入れると、その曲に隙間がなくなっちゃうからね。だから、いつでもスペースを演奏するよう心掛けているよ。どういうことかというと、常に何かを省くということ。あえて止まって、音を出さないことで演奏するんだ。音を出すことと同じくらい大切なことだよ。それによって想像力が活きる場所が現れるからね。それこそが僕がいつも努力しているところだね。

―CANと他のグループの違いは、まるでメロディのようにリズムを紡いでいるという点でしょうか。

「リズムとメロディはいつでも繋がっている」というのは昔から言われていることさ。もしメロディをリズムから解放すれば、それはもうメロディだと捉えられない。逆に言えば、いつだってリズムがメロディを導くんだ。リズムを聴くと同時にメロディのイメージが湧き上がってくる。すべてのリズムが小さなメロディのモデルなんだ。

―「Yoo Doo Right」ではホルガーがベースでリズムを弾いて、あなたがドラムでメロディを叩く部分がありますね。

常にドラムがボーカルメロディを叩いているんだ。リズム的な見方をすれば、音符は同じ。僕の考えではドラムはメロディ楽器だと思っているから。ただのリズムだと思ったら、それだけでは成り立たないよ。

―あなたは信じられないくらい様々なリズムパターンを持っていますが、ドラムソロを一切やりませんよね。

やりたいと思わないよ。そんな必要ないと思うし。というか、いつでもソロを叩いてるようなものだよ。自分がボーカルの伴奏だと思ったことは一度だってないさ。僕はいつでも自分は他の楽器とイコールの要素であると思ってる。大きなウエイトを占めていて、とても特別な責任のある、大事な要素だよ。もし誰かが突然演奏をストップしたとしても、僕は演奏し続けた。いつだって、ロックでもジャズでもない、ある特定のリズムを演奏してたんだ。それがどうやって組み合わさっていったのかいまだにわからないんだけどね。その代わり、いつでも循環する演奏を心掛けていたよ。ちょっとしたバリエーションとおかずを挟みながら、特定のリズムを最後まで叩いてた。CANそれぞれの曲に違ったリズムを見出すんだ。でも、最初から最後までそれを叩き通す。ハーモニーのパートみたいに。恐らくそれが僕と他のドラマーの一番の違いじゃないかな。みんなリズムを定期的に変えなきゃいけないと思ってるんだけど、僕の場合はリズムを叩き始めたらそれだけを叩くんだ。

―即興演奏でもそれでうまくいきますか?

即興っていうのはどういう意味?もちろん何かしらのリズムを呼び出すけれど、まずそれを理解しなきゃいけないんだ。それで反復ができるようになる。それから少しずつ変化はするんだけど、ものすごく狭い範囲内。どういう意味かというと、リズムの構造の中に留まるということなんだ。同じ音階の中に留まるのとまったく同じことさ。

―途中で気が散って叩き続けるのが大変なこともありませんか?

気が散らないようにするんだよ。すごく邪魔になるものは絶対あるんだけどね。でもそれも無視できるから。ドラマーの役割として、いつだって落ち着いて演奏しなきゃならない。そして他のメンバーに演奏をさせるんだ。ドラマーはビートを刻み続ける。多分指揮者がすることと似てるんじゃないかな。指揮者は目立とうと思って前に出てきたりせず、いい演奏が続くよう支え続ける。過去100年間、ドラムは酷いくらいに過小評価されてきた。それが最近になってようやく評価され始めてきたんだ。ドラマー自体がいなくなってきていることは残念なんだけど。すべて機械に代わってしまったから。テクノはリズムマシーンでビートが刻まれて、曲はシンセサイザーで進行していく。ある意味では、ドラム最盛期の幕開けとも言えるけど。

―でもそれこそ正にCANの本質じゃないですか。リズムから始まり、その上ですべてが作られていく。

さっきも言ったように、リズムはメロディなんだ。基礎となるメロディのモチーフがあって、その上で様々なバリエーションを終わりなく作っていくことはできるから。

―あなたはCANの精密なマシーンであると常々思ってきました。他のメンバーがその他の部分を実験しながら行ったり来たりしている一方で、あなたが信じられないくらいの精確さをグループにもたらしていたと。

当時はそこまで精確じゃなかったと思う。それ以来精確性っていうのを少しは学んできたよ。今と比べるとCANを始めた当時はそれほど精確じゃなかった。それに音楽の聴き方も変わってきた。コンピューターとリズムマシーンがあることによっておかしいと思ったらすぐ気が付くようになったから。昔のビートルズのレコードを聴いてみなよ。リンゴ・スターなんてすごい叩き方するから、今だったら素人バンドだって即刻クビにしてるよ。でも当時は誰も気が付かなかった。

―マルコムの脱退に関してはどう感じましたか?

とても悲しかったよ。恥ずべきことだと思った。でもそれからダモ鈴木がやってきてバンドに新しい風を吹き込んで切れたんだ。マルコムはとてもアメリカンだった。だからファーストアルバムはとてもアメリカンなテイストがあるけど、それもその後なくなって。『Tago Mago』は全然アメリカンじゃないと思うな。アメリカ的な影響はすべて吹き飛んでったよ。

―『Soundtracks』ではその違いがよくわかりますね。マルコムの声は歌をもっと生々しくしますが、ダモがいると音楽がより洗練されます。

二人はまったく違うよ。マルコムはゴスペル出身。今も聖歌隊でゴスペルを歌ってるからね。毎週日曜日には教会に行ってゴスペルのグループと一緒に歌っているよ。それとは対照的に、ダモは好きなことを歌うストリートミュージシャンだ。彼は英語もあまり上手じゃないし。彼が言葉や詞で表現したことっていうのは、まったくもって普通じゃないよ。

―ダモとセッションする時は、新しいリズムのコンセプトを持って演奏する必要があったんでしょうか?

当初のコンセプトそのままで演奏していたよ。いまだにそのコンセプトを持ち続けているさ。でもそれと同時に、初めた時には多くの発見があったんだ。CANをやっている時期にたくさんのことがクリアになっていったんだ。例えば、正しいリズムの叩き方を多く学ぶことができたり。

―でもその二人の違いはかなり大きなものじゃなかったんですか?

初めはマルコムと共にリズムを構築していたのに、突然その役を一人で担うことになったわけで。でも他のメンバーがまだいたからね。イルミンのキーボードと、ホルガーのベース。彼らはリズムパートに大きく貢献しているよ。それにダモはマルコムとは別のリズム感を持っているってだけで。悪くなったとは言わないよ。ただ違ったってだけさ。

―今日ワールドミュージックと呼ばれる音楽の影響が『Tago Mago』にはあると思うのですが、どうでしょうか。

それはとても重要な要素の一つだね。バンドメンバー全員エスニック音楽を聴いていたし。イルミンはアジア物にとても興味があった。誰も注目していなかった当時、僕らは定期的に世界のシーンをチェックするようにしていたよ。みんなイギリスとアメリカのことしか知らなかったからね。その他の国が注目されるようになったのは80年代に入ってからで、僕らはその20年前からとっくに知ってた。ホルガーはファーストアルバムで本場のベトナム語の歌を採用してるからね。

―(2枚組LPである)『Tago Mago』の、その2枚の違いは、ドラマーの視点から言うと、2枚目の開けた音と、1枚目の閉じた音の違いでしょうか。

残念ながら僕はもうあの手の音楽は聴かなくなってしまってね。自分でレコードも持ってないんだよ。いつかしらにすべて人に譲ってしまった。ホルガーに聞くといいよ、彼ならもっと詳しく答えてくれるはずだよ。過去にはあまり興味が無くなってしまってね。進化の過程であって、すべては進み続けるから。今だって進化の途中さ。新しいものを発見していくということ。あれから新しいドラムセットを作ったから、別の音楽を作りたいと思っているんだ。シンセサイザーとループを使って。だから昔のセットではもう叩かないんだよ。新しいセットはドラムだけで、ペダルは付いてないんだ。ハイハットとかそんなのもないし。その方がいいと思うから。もしドラムが存在しつづけるとしたら、ジャズやロックのために作られたセットはもうなくなるよ。音楽は間違いなく別の方向へ進んでいるから。残念なことに、ドラムマシーンでさえ普通のドラムキットのサウンドの真似をしているからね。でもドラムはきっともっと発展していくよ。

―楽器的な役割の他に、バンドというのはどのように機能するのでしょうか?

まずミュージシャン同士は完全に対等なんだ。楽器というのは声も含むよ。リードキターや一人の作曲者がいるわけじゃない。すべてが集まって起こるんだ。キーボードは音とリズム、ギターはコードを弾いて、ベースが一定の基盤を作る。実際みんながリズム的な役割を持っているんだ。ドラムがリズムを叩いて他が音を鳴らすっていうわけじゃないんだよ。ボーカルが特別だってわけでもなくて。特にダモの声は楽器のように機能していたね。歌詞は音楽と別々に書かれてたってわけでもないし。その代わり、シンガーは他の楽器と同様どんな風に自分をフィットさせるかを探る必要があった。

―ダモは彼らの音楽をもっと軽い球体に変えたという印象を持っています。

マルコム・ムーニーはブラックアメリカンで、複雑な過去を持っていたんだ。でもダモはずっと軽い人だからね。16歳の時に日本の家から出て行ったんだ。モスクワに向かって、それからあの場所へ流れ着いた。考えてみるとムーニーも似たような境遇だったのかな。彼はアメリカの軍隊から抜け出したくて、友人と一緒にインドに向かったんだ。そこでグルーに会いたかったらしいんだけど、どういうわけかその人物ってのが当時アメリカにいたらしくてね。帰る途中でここ(ドイツ)に立ち寄って、アートシーンに触れるために滞在してたんだ。ダモはホルガーと僕がミュンヘンで見つけたんだよ。彼はストリートに座って音楽を作っていてね。当時バンドにはシンガーがいなかったから、もしよかったら一緒に演奏しないかって彼に聞いたんだ。その直後に彼は僕らと一緒にステージに立って、すべてが最高にうまく行ったんだ。

―ほとんどのバンドはコンサートとレコーディングを別と捉えていますよね。逆にCANはサウンドトラックを制作していたりしますが、それはあなたにとってはまた別の作業だったんでしょうか?

レコードを作るのもサウンドトラックを作るのも、基本的には同じことだよ。もちろん僕らは映画を観ていなかった。でもイルミンは観てたんだ。彼が映画の概要を教えてくれて、そこからスタートしたんだよ。僕らは自分たちでバンドをいい感じのムードに持って行けたからね。あとは普通のスタジオ作業とまったく一緒さ。

―でも、レコードだと抽象的なアイデアを入れられるのに対して、映画となると具体的な要望が出てきますよね。

映画の内容に対しては何も気にしなかったね。シンプルに音楽を演奏すればいつもフィットしたんだ。イルミンが骨組みを作ったから、タイミングは大丈夫だった。それに僕らは映画の雰囲気を把握しているからさ。軽い感じなのか、もっと張り詰めたストーリーなのかっていうのをね。

―『Ege Bamyasi』の頃に、大きな変化が訪れます。あなたたちは突如スター(有名)になりました。それはバンドに何か変化をもたらしましたか?

特別なことは何もなかったよ。もちろん名になりたくて音楽をやっていたわけじゃないからね。ダーブリッジの映画1で少し注目されるようになったんだ。ということはコンサートにも少し人が入るようになるわけでね。でもスターになった気持ちは全然なかったよ。

―じゃあ、ロックンロール・ライフを送っていたってわけじゃ全然なかったんですね…。

ロックバンドだって思ったことは一度もないよ。反対にロックビジネスには近寄らないようにして、自分たちの道を見つけようとしていたんだ。イギリスやアメリカの音楽とあまり密接に関わっていないものをね。当時は、「ポップバンド・CAN」っていつも言われてた。実際はロックというよりもポップ寄りだったんだよ。

―後期のレコードはもっとポップですよね。例えば、ディスコ要素を取り入れたりとか。あれは意識的なものだったんでしょうか?

あれは実際には意識的にやったことではないよ。「I Want More」ってディスコの曲は覚えているけど。僕らにとって最高の時期とは言えないね。当時ディスコが絶頂期にあって、その影響下から抜け出せなかったんだ。楽しかったけれど、意図的にディスコの方向にいったわけじゃなかったんだ。

―一方で、演奏力はさらに洗練されていっていることが分かります。これはバンドにとって良かったのか、それとも逆に作用してしまったのでしょうか?

個人の志は常に成長ていたよ。でも他人のせいですぐその気が削がれてしまうんだ。僕たちはいつでも個人の集まりでいて、誰もバンドリーダーだったりグループの代表にならないように心掛けてたんだ。最も高いポジションで、「スポークスマン」だね。その役割は普通はイルミンが担ってた。当時彼は一番話しが上手だったから。でもそのあたりからホルガーがやるようになったと思う。でも間違いないのは、みんな一人ひとりが頑張ってバンドを引っ張っていこうとしていたってことさ。

―ホルガーが抱えていた問題は、彼はベースプレイヤーでありながら、一方でプロデューサ―的役割も担っていたということでしょうか。一時期バンド内で不満があったと彼は言っていました。どのように思われます?

どういうわけか、ホルガーのベース技術は異常に伸びていったんだ。最初彼はベースギターを弾いていた。実際、彼はベースを弾けなかったし、やり方すらよくわかってなかった。だからアルペジオを使ってギターみたいに弾いてたんだよ。最初はそれがとてもよかったんだ。それから彼自身のスタイルを確立していった。でもそれから彼のベースが盗まれてしまってね。フェンダーのムスタングを持ってたんだけど。それからフェンダーのジャズベースを買ったんだ。それから、彼のベース技術は落ちていってしまった。彼は高過ぎるくらいの志を持っていて、ベースヒーローたちみたいに弾きたいと思ってた。でもそれがホルガーには全然よくなかったんだ。僕に言わせると、彼のベースは最初は素晴らしかった。けどそれから並のベーシストになってしまった。そのせいでバンドが厳しい状況に置かれてしまった。多分、彼には色々と荷が重すぎたんだと思う。彼はプロダクションの方に熱が入りすぎてしまった。ただ彼にとっては、そっちの方がずっと合ってるんだけどね。

―『Ege Bamyasi』の時、イルミンがBravo誌のインタビューで、ヘンナー・ホイヤーという名の二人目のギタリストについて話しています。どんな人物なのかご存知ですか?

覚えてないな。面白いね。多分、ホイヤーギターのことじゃないかな。ギターのブランドだよ。思うに、ジョークかただのミスだと思うよ。ヘンナー・ホイヤーって名前の人物と一緒にやったことはないね。何か僕らと関係した名前だっていうことは、ぼんやりと思い出せるけど。

―その他のアルバムと比較して『Future Days』はほとんどアンビエント作品ですよね。

僕らはいつでもシンガーの問題を抱えてた。まずムーニーがバンドを離れた。それからダモもほんの少ししかそこに居なかった。2年か、多分3年かな。彼は結婚して、もうヒッピーはやめて立派になりたかったんだ。それ以来彼は変わったよ。でも僕らにはシンガーがいなかった。カローリが何回か試したけど、満足いく出来ではなかった。だからより楽器に集中することにしたんだ。ボーカル無しのインストバンドとして何回かライブもやったんだよ。

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―あなた個人にとっては何か違いがあったりしましたか?

正直、ないね。というのもボーカルが一番重要なパートだったことはないから。音楽それ自体が変わることはないよ。

―ホルガーが言っていたんですが、サンプリング技術が確立される前からCANはサンプルを使っていたと。

まるでコンピューターがあったかのように僕らは制作をしていたよ。ホルガーは死ぬまで編集してたからね。ものすごく楽しかったみたいだよ。今はコンピューターがあるから彼ももうやらないけど。でも当時は、彼は狂ったみたいにテープを切り貼りしてたよ。テープロールがそこら中に山の様に積まれてたから。なぜかというと、当初僕らはミックスボードを持っていなかったから、彼が切って音を作るしかなかったんだよ。スタジオで録音したテイクは大抵長尺だったから。パートを切り貼りしなきゃいけなかったんだよ。後になってミキサーを手に入れても、ホルガーはのミックスをいくつか作って、別々のミックスを一緒に編集して新しいものを作り出そうとしてた。今やコンピューターがあればすぐできちゃうよね。でも当時にしたらまた別の話だったのさ。まず彼は、いくつかのフィルターを使いながら違ったミックスを施すか、完全におかしなミックスをするんだよ。そうすることで後から新しい音を足して曲を再構築できるから。

―あなた自身はミキシング作業には興味はありましたか?

僕にとってはやはり演奏が一番興味のあることだね。ミキシングも悪くないけど、すごく興味を持ったことはないかな。普通スタジオでレコーディングしたあと数週間後にはミックスされてるから、録音したものとの関係が実際にはもうないんだよ。自分の中でミキシングが占める割合は本当に少ししかないんだ。ホルガーは大好きだけどね。

―でもイルミンとミヒャエルも作業に関わっていますよね。

さっきも言ったように、一番初めの頃はミックス作業もほとんどしなかったんだ。4枚目か5枚目くらいの頃にやり始めたんだよ。『Landed』の時かな、確か。マルチトラックの機材を手に入れたのはその時が初めてだった。その前は2トラックを使ってた。ミキサーもなかった。だからCANは初期が最高なんだよ。それが作品の出来に関係しているのは間違いない。僕らはすべてライブレコーディングで、オーバーダブもしなかった。後でマスターテープのコピーにオーバーダブをすることもほとんどない。4トラックで作業していた時が最高だったね。16トラックになってすべてが少しずつかみ合わなくなっていって、それぞれが自分自身のために作業し始めた。誰か一人を家に帰したら、さあ次は俺が録音する番だって言うんだよ。チームとして作業することがなくなって、それでもう本当に終わりだった。僕の意見だけど、初期の作品の方が、後期の作品よりもずっといいよ。

―それは誰しもが同意するところだと思います。

システムが関係してるんだと思う。マルチトラック技術によって僕らの音楽制作のシステムが壊されてしまったんだよ。

―だとしたら、なぜ昔のやり方に戻らずに新しいテクニックに固執したんです?

なんというか、もう遅すぎたんだ。もう戻れないんだよ。当時はそれを知らなかったし。その時は進化だと思ってた。技術的な見地から言ってもそうだったし。ただ制作の観点から言うと、芸術的じゃないんだよね。グループの自発性というものに傷がついてしまって、個人作業に取って代わった。何日も一人だけがスタジオにこもってるんだよ。その前は僕らみんな一緒にスタジオにいて、一緒に音楽を作って、一緒にアイデアを練り合ってた。

―でもレコード上は以前と同じように「プロデュース & 作曲 by CAN」という風に書かれていますね。

基本的なアイデアはまだグループで作ってたから。ベーシックバンド、当時は自分たちをそういう風に呼んでた。少しのリズム、ベース、それにハーモニーの構造がいくつかあって。でもそれから、グループをコントロールする個々人によってそれらがバラバラにピックアップされると、曲は大体において最初の状態よりも酷くなる。ほとんど最後まで、アイデアはグループとしてのバンドから出てきてたんだよ。それがバンドの基本的方針だったね。一番最初からリーダーも、グループの先頭に立つ花形ヴォーカルもいなかった。グループ内の全員がそれぞれ同じ権利を持って、同時に自分だけの特別な役割をもっていた。ハーモニー楽器はハーモニーを担当して、ドラムはリズムを扱って、ベースも同様に。それぞれの役割を共有し合って成長していく。後にそれが無くなると、バンドの終わりに繋がっていった。技術的な進歩のせいで、もうグループとして続ける意味がなくなってしまったんだ。

―にもかかわらず、その後も素晴らしいアルバムをたくさん作られましたよね。

いい作品はたくさんあったよ。でも、作る必要もなかったんじゃないか、というのが僕の意見。最初の5枚だけでよかったんだよ。その時にいい感じで解散できたはずなんだけど。

―リズム的な部分で振り返ってみると、『Flow Motion』は他の作品とは違っていると思います。レゲエ、ワルツ、儀式のような感じのする曲が少しあって、全体的に非常にリラックスしたサウンドですね。

70年代中期、僕らは様々なものに影響を受けて取り入れていったからね。例えばディスコとか。でもそのどれもグループの助けにはならなかったね。やっぱり最初のレコードがベストだと思ってるよ。

―後期の作品は初期作品ほど出来がよくないというのは、バンドメンバーも気づいていたんでしょうか?

実際のところ、しばらくしてからわかったんだよ。作っている最中は…なかなか難しいよね。何が本当に起こってるかっていうのは、いつだってある程度距離を取らないと気づけないものだし。今ならわかるさ。

―シンガーの不在と関係してると思いますか?

そうは思わないな。シンガーだって他の演奏家と同じだからね。初期のマルコム・ムーニーを除いて、シンガーが先頭に立ってることはなかった。シンガーだけ特別な役割があるってことはないよ。

―でもミヒャエルがギターを弾きながら歌わなければならなかった時…ギターを弾いているだけの時と何かが違っていましたよね。

僕らは誰かが歌わなければいけないと思ってたから、必要に迫られてやったことで、あれはもちろん間違いだったよね。今ならよくわかるよ。ヴォーカルはいらないって。しばらくシンガー抜きで演奏したけど、うまくいってたんだ。いや、意外と長くやってたかな。ベルリンのスポーツ宮殿でやったコンサートを覚えているよ。その時はシンガーがいなかったけど、完全にうまくやれてた。大規模なコンサートだったよ、フリーが出てて。いや、その時はもうバッドカンパニーって名乗ってたかな?あとフロック2だ。ちょっと信じられないくらいの警察騒ぎがあったコンサートだったよ。バンドの一つが、確かフロックだったと思うけど、演奏したがらなかったんだ。そしたら観客が怒って突然パニック状態になったんだよ。何百人もの武装した警察官がやってきて、こん棒で客を殴ってさ。あれは本当に怖かった。すぐその場から立ち去ったよ。今まで経験した中で一番のホラーショーだったね。何と言っても酷かったのが、彼らが騒ぎに無関係の人たちを殴ってたことだよ。座席を壊して、ステージの前をむちゃくちゃにして、照明まで破壊したのはほんの数人だったんだけど。他のバンドのせいでそうなって、僕らは騒ぎにはあんまり関係なかった。ほぼ無傷で逃げ出せたよ。コンサートの主催者が音響システムを提供してくれたんだけど、それがあんまりよくなかった。スポーツ宮殿が閉まるちょっと前のことだったかな。数年後には取り壊された。

―リーバップ(・クワク・バー)とロスコ・ギーが加入して、大きな転換を迎えました。リズムコンセプトが大きく変わりましたね。

リーバップはコンガの世界チャンピオンなんだ。本当のスーパーマンだよ。彼との演奏はとても楽しかった。ロスコとはロンドンで出会って、実はそのまま一緒に連れてきちゃったんだ。彼はベースマンだね。彼は(ドイツの)ボンにガールフレンドがいて、最初はただ僕らを訪ねに来てくれたんだけど、それから一緒に演奏するようになった。二人ともトラフィックでプレイしてたんだよね。バンドが存続中は、このコラボレーションはすごくうまくいってた。ホルガーはもっとテープやラジオサンプルや、いろんな変なことに専念できたし。

―ですが、それはCANだったんでしょうか?CAN&トラフィックだったでしょうか?

いやいや、トラフィックとは何も関係ないよ。それでも僕らはCANだったさ。何も変わらなかった。その代わり、彼らがCANのシステムと融合したんだ。

―しかしそのシステムももうあまり機能していませんでしたよね?

彼らは自分たちの作品を持ち込みたがっていて、よくわかっていなかった。グループのイデオロギーをただ単に理解できなかったんだ。古い作曲方法は機能しないんだ。僕らは今まで一度だってソングライターであったことはなかったし、CANの99%はそういうやり方でやってきた。まったく違うイデオロギーを持ってたんだよ。音楽を書く作曲家もいないし、演奏家だって、ドラマーの地位が一番低いなんていうヒエラルキーもなかった。当時あった、グループはいつでもグループらしくあるべきだっていう考え、僕はちょっと気持ち悪いと思うかな。普通は一人が歌詞を書いて、もう一人が音楽を作るっていう、レノン/マッカートニーとか、ジャガー/リチャーズみたいな。それで他のメンバーは実際は替えが効くんだよ。たまにクビにされる人、いるよね。僕らのバンドは誰一人として替えが効かないんだ。僕らはいつだって、ボスもナンバーワンもいないよう注意してたから。

―それって大変じゃなかったですか?

全然大変じゃないよ。だってみんな誰かにボスになってほしいと思ってなかったから、なんというか従業員意識みたいなのが芽生えていったんだよ。全員が全体の責任者で、それってすごく重要だったと思うね。一人ひとりがボスで、一人ひとりが平等なんだ。共同体思考というのが生まれた1968年の政治思想から、自然発生的に出たものなんだけど。コミューンであったことは一度もないし、一緒に住んだこともない。だけどスタジオの中ではみんな平等の権利を持っていて、全員が同じようにグループに対して責任を持っていた。

―あなたからすれば、突然パーカッショニストと演奏することになるというのは、ドラマーとしてかなり大きな変化であったと思います。

僕にとってはワンダフルな出来事だったよ。なぜなら、単純に彼は素晴らしいパーカッショニストだったからね。リーバップみたいな人はそうそういないよ。残念ながら彼は80年代初頭に亡くなってしまった。世界で最も優れたコンガ奏者の一人だった。ローリング・ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」でも彼の演奏が聴けるよ。

―リーバップの加入でリズム構造が変わりました。『Saw Delight』はもっとフローしていて、さらにダンサブルですね。そこまで神経質に聴く必要もありません。

でもあのアルバムは大失敗だった。メンバーは誰もあれを好きじゃないんだよ。24トラックで録音して、数週間後にミックスした。ミキシングの時点でオリジナルのアイデアが消えてしまったんだ。5人全員がミキシングボードの前に居ることが出来なかったから、2人だけがそこに残って。そしたらオリジナルアイデアが無くなってしまった。僕の意見だけど、あのアルバムは全然よくないね。でもそれって普通のことで。グループっていうのは長生きしないんだ。僕のセオリーではグループの寿命は犬の寿命と同じ。10年したらほどんどのバンドはもうお終い。結婚生活みたいにね。興奮もいずれは醒めていくのさ。メンバーもそれぞれ他の方向へ進んでいって。お金の為に続けるよりも、グループ解散を選んだのは正しかったと思う。僕らは唐突に、今すぐやめようって言ったんだ。制作のプロセスが始めた頃のようにうまく機能しなくなっていたのは知っていて。もうお終いだって。さあ、みんな好きなことやろうってね。

―ホルガーとリーバップの間にはすごい緊張感があったかと思いますが。

彼らの関係はそんなに悪くなかったよ。ホルガーもなかなか気難しいところがあったけどね。今の彼は多少接しやすくなった。彼、昔はちょっと頑固だったから。リーバップはそれが好きじゃなかったんだ。ホルガーはちょっと独裁的な部分があるんだよね。ボスになろうとしたときがたまにあったから。でも他のメンバーがうまいこと止めてたんだ。

―『CAN』は本当に美しいアルバムだと思います。

『CAN Delay 1968』のことだよね?

―いえ、1978年の『CAN』のことです。

どういうわけか、すごく古い録音物を持ってきたやつだったかな。

―いえいえ、『Can Can』とか 『Aspectable』が入っているアルバムです。

あれは完全に失敗作で、グループが衰退してるよね。あのアルバムのことはほとんど知らないな。

(※↓は『CAN』と『Out of Reach』の2 in 1仕様)

―一方で、過去の還元主義的な良さの一部があのアルバムには反映されていると思います。

カット&ペーストした作品があのアルバムに入ってるかどうかちょっとわからないけど。新しいバージョンの曲を収録したレコードがたくさんあるから。そのアルバムの収録曲が昔の録音かどうかはちょっとわからないな。

―いや、ここにちゃんと書いてありますよ。1978年録音って。

ちょっと信じられないな。1978年には、グループはもうほとんど終わっていたから。

―アルバムジャケットにはスパナーが描かれてます。

あぁ、ちょっとずつ思い出してきたよ。そのレコード、僕の記憶から完全に消えてたよ。

―もう一曲だけ、お尋ねしなきゃいけない曲があります。ジャック・オッフェンバックの「Can Can(天国と地獄)」を演奏されたのは、どういった経緯なんでしょうか?

あぁ、あれは義務的なエクササイズの一環だよ。まず、あの曲の名前だよね。それから、ジャック・オッフェンバックはケルンに住んでたから。あれは義務的なエクササイズの一環だよ、全然うまくいかなかったけどね。

―いつかインタビューを読んでいて、その中であなたたちメンバーの一人がおっしゃっていたんですが、CANは枝が伸びなくなった木のようだ、と。では、どうしてそれから『Rite Time』を作ることができたんでしょうか?

あれはどちらかというと、バケーションっていう感じだね。カローリが南フランスに家を持っていて、ニースに近くて、スタジオもあったんだ。僕らみんなそこにいたんだ、ホリデーみたいな感じでね。それでスタジオで遊んでたんだよ。再結成なんてアイデアは全然なかったよ。スタジオで何かやってみようっていう、すごく自然な流れだったんだ。なぜこのアルバムでは、ダモではなくマルコムを起用しようと思ったんでしょうか?ダモはもうやりたがらなかったんだよ。彼はまったく違う人生を歩んでいたからね。彼は日系企業で働いていて、今もそこで働いているけど。それに結婚もして子供も二人いて。ただプレイする気がなかったってだけさ。

では、何年も経ってからマルコムと一緒にやるというのは、どいうだったんでしょうか?

僕らはたまに会ってたし、今もマルコムと連絡取りあってるからね。純粋に一緒に楽んだよ。レコードはそんなにいい出来じゃなかったと思ったけど。そりゃそうだよね。本来のゴースト、魂は漏れてしまってたんだから。缶の中のゴーストはもういないからね。当時の熱意、興奮、絶妙なコンビネーションというのは、僕らからはもう離れてしまっていたから。

―『Rite Time』は以前の作品とどのように異なるんでしょうか?

僕らは自分たちのことをグループとして見ていなかった。その代わり、自分たちの意思で集まって、制約抜きにしてスタジオで演奏したんだ。なんの意図も期待もなく。だから、それについてメディアが書いてたことは真実じゃないよ。ある意味で僕らはまだグループなのさ。ただバンド名を使用していないだけでね。今でもスタジオで一緒に作業もするよ。シュミットとカローリとは今も一緒にやってるよ、もちろんホルガーとも。まあ彼とは最近はあまり一緒にやっていないけど。でも、シューカイ、シュミット、カローリのレコードには何回も参加しているよ。お互いの関係は多分以前よりずっとよくなってるね。シンプルに、プレッシャーがないしさ。

―なぜ『Rite Time』は当時録音から3年間リリースされなかったんですか?

時にはそういうこともあるのさ。レコード契約を見つけるまで時間がかかってね。制作からリリースまでの間に一定の時間を要するのは普通なんだ。もしくは、レコード会社がレコードをリクエストしているか。レコードのリリースっていうのは、いつだって長い時間がかかるものなのさ。最低でも一年はかかるんだよ。


『Future Days』以降の作品も素晴らしいので是非聴いてみてほしいですね。大失敗作の烙印をおされている『Saw Delight』ですが、CANの全カタログの中でもトップ3に入る傑作だと私は思います。各時代の作品がコンパイルされている『Unlimited Edition』や『The Lost Tapes』も編集盤とは思えない出来で(ホルガーのプロデューススキルの凄さでしょうか)、個人的には一番聴く回数が多いです。

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脚注

  1. イギリス人脚本家のフランシス・ダーブリッジ(Francis Durbridge)がドイツで制作したTVシリーズ『Das Messer』にCANの「Spoon」が主題歌として使用された。
  2. The Flock。60年代後期~70年代に活動していたシカゴのプログレバンド。
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