ケヴィン・エアーズ 最後のインタビュー (2008)


ケヴィン・エアーズは1944年イギリス生まれ。サイケ・ポップ⇒ジャズ・ロックバンド、ソフト・マシーンのオリジナルメンバーの一人でもあります。ロバート・ワイアット、マイク・ラトリッジと共に制作した1st アルバム(1968)発表後にソロに転向しました。

1969年の『Joy of a Toy』から1992年の『Still Life with Guitar』までコンスタントに作品を発表しました。92年のヨーロッパツアーの後、長年のコラボレーターであったギタリストのオリー・ハルソルがドラッグによる心臓発作で死去。それからライブの数は徐々に減っていき、90年後半からは南フランスで隠居状態でしたが、2007年に復活作『The Unfairground』をリリースしました。下記は、同作発表後の2008年にWord誌が行なったインタビューの翻訳で、結果的に彼の最後のインタビューのひとつになりました。

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「他にやりたいことなんて、考えたこともなかった」

2008年、Word誌はソフト・マシーンの創設メンバーの一人であるケヴィン・エアーズのインタビューを行い、これは結果として彼の最後のインタビューのひとつとなった。今週、彼は68歳でこの世を去った(2013年2月18日没)。

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フランス南西部の都市・カルカソンヌの街の高台には、ケシ畑と窓が固く閉ざされた家々がひっそりとあり、まるで静けさが永遠に続くかのようである。山へ登れば登るほど空気が近くなってくる。途中の道が二手に分かれる場所に果物の木が植えられており、木陰にハンモックが吊るされている垣根をめぐらせた小さな土地がある。とある昼下がり、もしあなたがラッキーなら、そこでケヴィン・エアーズに会えるかもしれない。

エアーズは自発的国外追放という形で、年数を忘れる程長い間フランスに住み続けている。イギリスという国が彼の肌に合ったことは一度もなかった。40年前、ソフト・マシーンが1stアルバムをリリースしジミ・ヘンドリクスとツアーをした時は24歳だった。リードヴォーカルでベーシストだった彼はその後バンド活動をギブアップし、イビザ島へと逃げて行った。それからのことを彼は後にこう話している。『何にも頼らないで生活してたよ。フルーツは木から取って、魚は毎日自分で捕まえてた。』彼のファーストソロアルバム『Joy of a Toy』は、「Eleanor’s Cake (Which Ate Her)」や「The Lady Rachel」などが収録されている、サイケでユーモアたっぷりの作品である。ファースト・シングル「Singing a Song in the Morning」のデモでは、元ピンク・フロイドのフロントマン、シド・バレットもレコーディングに参加していたものの、完成前にはコードを覚えられないほどに精神を病んでしまった。

若きマイク・オールドフィールドをベーシストに迎えたバンド、ザ・ホール・ワールド(The Whole Word)は、セカンドアルバム『Shooting at the Moon』のために結成、ケヴィン・エアーズは第2のデヴィッド・ボウイと呼ばれ再度脚光を浴びることになる。しかしながらプロモーションツアーを数日でキャンセルし、これからという時にバンドはそのまま頓挫。

 レコード会社は彼を繋ぎとめ、70年代にはソロ作品のリリースを重ねる。バナナや白いドレスを着た女の子がテーマの曲や、8分を超える実験作品、スポークンワードなどが収録された。エアーズは数えきれないほどの女性達と夜を共にした。ジェーン・アスピナルからニコ、ジョン・ケールの妻、更にはルー・リードの彼女まで。彼は(ロンドンの)マイダヴェールにブライアン・イーノと共に住んでいた。1973年、ロバート・ワイアットが浮気中に泥酔し窓から転落して下半身不随となってしまった、あのパーティが開かれた場所だ。それから10年後、エアーズは再度太陽を求めて旅に出る。(フランス)プロヴァンス地方、マヨルカ島、メノルカ島へと移り住み、70年代が終わる頃には完全に表舞台から姿を消してしまった。

 2007年には新作『The Unfairground』をリリースし、旧友たちとの再会を果たす。その中の一人、ワイアットとは『30年も会っていなかった』。ついにカムバックかに思われた矢先、夏に予定されていたヨーロッパ、アメリカを回る大型ツアーは突如キャンセルとなってしまった。そんな奇妙なアーティストに、この山の中で出会う。人型の跡のついたハンモックと、木々の隙間から微かに覗くフィッシャーマンハットのつば。一体どうなるのか、見当もつかない。

ケヴィン・エアーズはむしろ居心地悪そうに、ハンモックの縁に腰かけている。彼は立ち上がって出迎えてくれた。身長188cm、ボロボロのベルベットジャケットと白のトレーナー着た彼は、少し表情を強張らせた。数カ月前に肋骨を負傷しており、右の掌にも真新しい切り傷がある。その日の朝に転んで擦りむいたという。彼は帽子を取ると、ボサボサのブロンド頭を掻いた。それから自分の顔が太陽に曝されていることがわかると、もう一度気恥ずかしそうに帽子を頭に乗せた。恐らくだが、肋骨の怪我(酒場で喧嘩した時にやったらしい)というのは、いつも持ち歩いている青いプラスチックバッグからタブレットを取り出して食べ続ける為の、ただの言い訳なんじゃないか、と思った。『俺のビタミンバッグ』彼はそう呼んでいる。足元がおぼつかず、見られるのも、話しかけられるのも、ひどく恥ずかしがっている。ケヴィン・エアーズはいくつかの不可思議な痛みを抱えていた。

『村にある女子修道院を見たかい?』巻き煙草を探しながら彼はたずねた。まるで1950年代のBBCのキャスターのように、彼のアクセントは植民地時代の如く精練され、声量豊かに、S音の歯擦音がして、T音が上品に交わる。『すごく変なんだけどさ、』彼は続ける。『あの辺りは修道院が5000棟くらいあるのに、誰かが出入りしたところを一度も見たことないんだよ』我々は今シュールなテリトリーの中にいる。彼はにこやかに輝き始める。『きっと彼らは巨大なソーセージ製造機の中に送り込まれてるんじゃないかって思うんだよね』彼は続ける。『それかドッグフードにでもされてるんじゃないの』我々が彼の車に乗り込んだ時、彼は既に最低でも2本のワインボトルを空けており、鎮静剤で眠る直前であった。どういうわけか、そんな状況でも私は無傷で山腹にたどり着けるだろうと楽観的であった。最悪でも肋骨二本の骨折だろうと、私は自分に言い聞かせた。その上ケヴィン・エアーズは私を事故に巻き込むには紳士過ぎる。

エアーズの幼少時代は贅沢で、孤独で、悲しいものであった。彼の父親、ローワン・エアーズはBBCのキャスターで、(TV番組)『The Open Door』の制作者であり、また音楽番組『The Old Grey Whistle Test』の共同制作者でもある。両親が離婚した際、ケヴィン・エアーズは祖母の元へと送られた。彼の母親は、『カトリックの強烈な罪責観念と、自己鍛錬欲の強い冷たい女性』だったという。彼女は軍の士官である新しい夫と共にマレーシアへと移り住み、彼を呼び寄せた。当時6歳のエアーズは極東の国まで3日間、(バンコクでの乗り継ぎも含めて)たった一人で旅をしたのであった。『80人いる生徒たちの中で白人は俺だけ。マレー語はもちろん喋れないしね。それからカトリックの全寮制学校に入れられたんだ。ゲイの牧師ばっかりでさ、みんな俺のパンツに手を突っ込んでくるんだよ。ブロンドヘアーで、天使みたいだったからね』

その後イギリスへと戻り、エアーズは『どこでもいいから自分を受け入れてくれる学校』へと送られた。いくつかの学校で追い出され、いくつかの学校では自分から逃げ出した。学校の名前も場所も、今や彼の興味の対象ではないが、その内の一つがカンタベリーにあるサイモン・ラングトン・グラマースクール(Simon Langton grammar school)。ロバート・ワイアット、マイク・ラトリッジ等、その後ソフト・マシーンを結成することになるメンバーたちと出会った場所である。彼らとの友情について彼は『初めて出会った親友、初めての家族だったよ』と述べている。彼はチェルシーで父親と共に住もうと試みるが思った通りに行かず、それからというもの路上で売春をすると見せかけてお金を奪って逃げる、「路上売春詐欺」を繰り返すようになった。

車が我々の目の前を間一髪で通り過ぎ、中にいたフランス人ドライバーが信号機の方を指差す。『こんな恐ろしい道路より、反対側にいこう』エアーズは私がシートベルトを締めているかを確認する。防災グッズのために彼の自宅に一度寄ると、ワインボトルを7本抱えて車に戻ってきた。

「Je suis unrock star…Je habiter la,dans la south of France…(俺はロックスターだ 南フランスに住んでるのさ…)」

ビル・ワイマンの80年代ヒット曲は、ミニチュア、鮭の養魚場、レコーディングスタジオ、小切手といったイメージと、食事、飲み物、良い家の揃った居心地の良い生活を思い起こさせる。エアーズの自宅建物は高く、閉め切られており、狭い道の終わり、峡谷の脇に建っている。庭は3段階に分かれており、地衣植物に覆われた角度のある手すりが付いていて、様々な植物がひしめき合っている。古い墓地の香りと、奇妙な熱帯オゾンの匂いもあり、のんびりとした空気に包まれている。キッチンテーブルには熟れた桃が紙袋からこぼれ出て、枯れて茶色になったフジウツキの花弁は風に吹かれて床に落ちている。ドレッサーには小さなCDプレイヤーがあり、CDが6枚積み重なっている。その内のひとつはゲール人シンガー、ジュリー・フォウリスで(『誰かにもらったんだ』とのこと)、その他はケヴィン・エアーズ自身の『The Unfairground』、『Whatevershebringswesing』、『 Shooting at the Moon』。埃まみれになっている。それはまるで誰かが、彼が誰であるかを、彼自身に教えるために置かれたようにも見える。

80年代、エアーズはヘロイン中毒であった。以前マイク・オールドフィールドは彼にポータブルスタジオセットをプレゼントしたが、ヘロインを買うために売り払ってしまった。70年代もう一人の「次世代の大物」、彼の音楽パートナー、パトゥのオリー・ハルソルは、1992年にオーバードースで亡くなるまで彼のドラッグ仲間であった。彼の死はエアーズを現実世界へと引き戻した。しかし、この家の散乱した家具もない剥き出し有様は、まさにあの頃を物語っている。沢山のベッドルームには、本棚も服もガラクタすらもない。彼は自分のベッドを見せてくれた。グリーンの豪華なベルベッドタイプだ。しかし、両サイドに眠った跡が付いている。不眠症の形跡で間違いないだろう。それから、真っ赤に塗られた部屋に案内してくれた。壁の一部からゴールドリーフのデザインを描き始めている様子が見える。『女性の触り心地をイメージした部屋さ』と彼は言った。その女性とは、5年前までここに住んでいたアメリカ人バーテンダーのことである。この家は彼女を忘れられないでいる。もしケヴィン・エアーズが自由に語れること、語らなければいけないことがあるならば、それは愛についてだ。『恋をしてないと、曲が書けないんだよ』彼はそう言った。『いつでもそうしてきたんだ。もし恋をしていないのなら、俺にとってはなんの意味もないんだ。やる気ゼロだよ』

家の一番上には子供部屋のようなスペースがある。『子どもを授かった時用の場所だよ』実際、彼にはもう成人している数人の子どもがおり、リチャード・ブランセンの元妻・キルステンとの間に授かった娘のガレンとは、今も連絡を取り合っている。70年代ヴァージンレコードとの契約は、様々な面で実を結んでいるわけだ。しばらく使われた形跡のない、古ぼけたタイプライターがここにある。そしてこの3年間『The Unfairground』のために曲を吹き込んでいた4トラック・テープレコーダーも。ここには楽器もなく、彼のプロとしての音楽活動を示すものはほんの僅かしかない。私は、彼に今現在どうやって曲を書いているのか聞いたのだが、すぐさま彼に恥をかかせてしまった気持ちになった。

彼は1パイントの小ぎれいなペルノーを片手に庭へ出た。我々は場所を変えて、私の顔は太陽の下に曝され、彼は木陰に隠れた。私は彼の体力的な限界に困惑していた。彼は2年前にフランスで数回ライブを行い、それはほぼ暗闇の中で行われたという。もし彼が自身を他の60代の男性と比べたならば、ずっと気分はいいはずだろう。しかしそれでは的外れなのだ。なぜなら40年前のイビザ島、もしくはモロッコの海岸にいたからあの頃から、彼の心は時が止まっているように見えるからだ。

彼のアティテュードには揺るぎない何かがある。彼のロマンティシズム、穏やかさ、貧しい環境にも左右されない放縦な生き方。それらが、彼がノスタルジックな旅に夢中になっている60年代の模倣作品たちとは一線を画している理由なのだ。『カンタベリーシーンなんてなかったって、俺はいつも言ってるんだ』彼の初期のキャリアについてたずねた時、彼は淡々とそう答えた。『俺らがやってたことを他にやってた奴らなんて、6人もいなかった。本物のバカが集まってる大聖堂の街なんかにはね。裕福そうなアクセントで話すからって、みんな俺をいじめたんだよ。マイク・ラトリッジはオックスフォードの哲学の授業で一番になったし、ロバート・ワイアットは文学のバックグラウンドがある。そういうのが俺たちを引き寄せたんだ、本当に』

『ソフト・マシーンと俺の関係っていうのは、』彼はゆっくりと続ける。『それ以外にやりたいことなんて、一度だって考えたことなかったってことなんだ。その他の唯一の希望と言えば、最小限のことをやりたいってことかな。実際、起こることは起こるんだって思ってるんだよ。そんな風に、そこに誰かがいて、誰かはいなくて。ここにこの娘がいて。ここにこの食べ物があって。賢い人っていうのは、最小限のことだけをやる人だと思うんだよね』

奇妙なことだが、ケヴィン・エアーズは最高の生活を送っている。彼の現在において。もし彼が初期のキャリアを糧としながら生きていたなら、それを絶やさぬ為にもっと沢山のことを行なっていただろう。実際、その後わかったことだが、彼は後に予定されていた2008年(ヨーロッパとアメリカを回る)夏のツアー日程を見た時、崩れ落ちてしまい、アルコールと鎮痛剤漬けになり入院してしまった。彼が初めてツアーをキャンセルしたのは、1969年のことだ。彼は様々なことを「乗り越えた」男ではない。ほんの少しも変わっていない男なのだ。

彼が住む村は夜はベッドタウンになる。驚いたことに、夕方遅くになって彼はアコースティックギターを持って家の外に現れた。彼が初めて私に見せてくれた、音楽キャリアの証だ。彼をじろじろ見る者も、騒ぎ立てる者もなく、彼の意欲をそぐ者はいない。戸口に腰掛けて、彼は古いブルースソングを歌い出した。彼の声は大きく、自信に溢れ、まぎれもなく石畳の街路に響き渡っていた。ビートに遅れ、ゆっくりと。一人、また一人と、彼の演奏を聴きに集まってきた。老いたフランス人カップルが、シャッターを上げて、彼を見下ろしていた。彼が演奏を終えると、誰かが『「May I」をやってくれ!』と叫んだ。彼の作品を聴きたいのだ。『じゃあ「Lady Rachel」はどうだい?』観客はよく分かっていない。『いや、あの辺の曲はできないよ』彼は諦めるように静かに答えた。『歌詞もコードもわからないから』

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