ミヒャエル・カローリ インタビュー (1983)

CANの最年少メンバー、ミヒャエル・カローリ。こちらは1983年3月にイギリスのElectronics & Music Makerという雑誌に掲載されたインタビューです。原文はこちらから。当時は最初で最後のソロアルバム制作中で、翌年の1984年に『DELUGE』というタイトルで発表されました。現在のところ残念ながらデジタル配信はされていないようです。

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ミヒャエル・カローリは1948年4月29日、ニーダーバイエルン行政管区1のシュトラウビングで生まれた。幼少期にバイオリンのレッスンを6年間受け、11歳でバンジョーを、13か14歳でギターを始めた。スイスのローザンヌ大学に進学して4年半過ごした後、ホルガー・シューカイからCAN参加の誘いを受け、帰国した。

その時は、当時流行っていたものをプレイしていたね。ディキシーランド2さ!その当時は人気のジャンルだったんだ。バイオリンからテナーバンジョーへの移行は大したことなかったね。実質的に左手は同じだから。ギターはあまり勉強しなかったんだ。法律を少しだけ学んだよ!

ジャズに夢中でね。ストーンズが出てくる前はロックにはまったく興味がなかったんだ。60年代はどんどん面白くなりそうな雰囲気だった。今は古い音楽を聴くのは大好きだけれど、当時はとにかくジャズにハマってたんだ。そしてジャズの次は、もうCANだね!その前は実際にジャズしかやってなかったんだ。ホルガーに出会って、お互いアヴァンギャルド・ジャズがすごく好きだったから連絡を取り合っていたんだ。

当時ホルガーは音楽の先生で、僕は彼からちゃんとした音楽の授業は一度も受けなかったんだけど、ギターのコツを教えてくれるよう頼んだんだ。彼と一緒にアヴァンギャルド・ジャズバンドを組みたかったんだけど、イルミン・シュミットが彼に電話をしてロックグループを組むって話してたそうで、だからそれに僕も乗ったんだ。そうじゃなかったらバーで演奏するダンス・ミュージシャンになろうと考えていたね。法律はあんまりしっくりこなかったから。」

初期のCANの様子は、最近Spoonからリリースされた『Delay 1968』に収められている。このアルバムでバンドサウンドはすでに確立されているため、作品になるまでにどれほど練習をしていたのか、これ以前に作られた未発表音源などは存在するのか、ミヒャエルにたずねてみた。

「それはCANで一番最初にやったものだね。僕ら4人は映画のサウンドトラックをすでに作っていて、それからデシ(マルコム・ムーニー)がやってきたんだ。ヒルデガルト3がパリで歌をうたっていた彼に会って、ケルンに来るよう誘ったんだ。彼に初めて会った日に「Nineteenth Century Man」と「Father Cannot Yell」をやったんだ。それがオリジナルのバージョンで、『Monster Movie』に入っているバージョンじゃないね。最初にやったのはあまりにも混沌としていて音も酷かったから、もう一度やったんだ。もう何年も聴いていないけど、個人的には最初のバージョンの方が好きだね。全曲1テイクでやったよ、「Star of Bethlehem」を除いてね。これは一か所だけオーバーダビングをしている。事前にコードすら決めなかったよ。ただ、「Thief」は映画用の曲でほぼホルガーの作品だ。僕が弾いた箇所のほとんどは、最初にホルガーが口で歌ってくれたものだ。マルコムは感じたままに言葉を並べたんだ。」

初期のCANの音楽はすべて即興で作られた。これを理解したら、次に重要なコンセプトはアルバムが制作された技術レベルだ。ネルフェニッヒ城の中にあったスタジオには、Revoxの2トラック・レコーダーが2台だけ。そこに想像力豊かなレコーディングエンジニアであるホルガー・シューカイがいた。『Soon Over Babaluma』でのドラム、ストリングエフェクト、パーカッションパターンなどのシーケンサーといった複数のレイヤーは、間違いなく最低でも16トラックが必要だったのでは?

「いや、16トラックを使って初めて録音したのは『Landed』だ。スタジオから改造した映画館4へ引っ越した後だった。『Soundtracks』、『Tago Mago』、そして『Babaluma』は2トラックだよ。『Monster Movie』同様にね。『Delay 1968』に比べて、『Monster Movie』はずっとシリアスで洗練されたもので、制作により手間をかけたんだ。2つの作品は同じ機材、同じ場所、もっといえば同時期に作られたものだけどね。『Delay』の一部は『Monster Movie』のセッション中に作られたものだ。映画のサウンドトラック制作はバンドを続けるためみたいなものでね。すでにイルミンはその分野で働いていて、僕らに仕事を沢山くれたんだ。だけど、洗練された音楽が2トラックに録音できたとしても、常に問題だったのはバランスだ。自分がいいプレイをするには、レコードで丁度いい音よりも少しだけソフトなギターが必要だったんだ。『Babaluma』のギターのほとんどは少しソフト過ぎるんだよ。録音した後じゃ別のミックスを作れないからね。すべて演奏したままに録音されているんだ。」

古い機材のせいで、バンドが制約を感じていたかを聞いてみた。

「それはないよ。なぜなら、制約こそが最もクリエイティブなことだからね。初期にもっといい機材があったなら、ホルガーはあそこまでいい仕事をしなかったんじゃないかな。だから、16トラック時代よりも2トラック時代のCANの方がいいって人がいるんだよ。あの強力な空気感は制約によって生み出されてたんだ。」

興味深いことに、「Vernal Equinox」や「Chain Reaction」といった曲のエフェクトは、シンセサイザーを使うことなく生み出されていた。

最後のレコードを除いて、シンセは一度も使わなかったよ。「Vernal Equinox」ではイルミンのピアノやオルガンにリングモジュレーターをかけたんだ。シンセサイザーを使えば数多くのサウンドの中から選ぶことができるよね。でもイルミンやみんなのアイデアっていうのは、特定の音を持った楽器を使って、その音を別の何かに変化させるっていうものだったんだ。繰り返すようだけど、その方が、制約によってよりクリエイティブになるんだ。シンセは簡単すぎる。スイッチを変えればまったく異なる音が鳴るんだからね。僕らが使っていたアルファ77というユニットは、シンセサイザーじゃなかった。あれはイルミン仕様に作られたサウンドモディフィケーションユニットなんだ。そのリングモジュレーターをギターとベースに使ってた。それにフランジングが起こってたんだけど、実際は機械の故障だったんだ。エコ―用にテンションのかかったテープを使ってたんだけど、しょっちゅうズレてたんだ。CANの音楽で聴けるエフェクトの多くはそんな風に生まれたものだった。意図してやったものよりも、そっちの方が僕にとってはずっと面白いし、クリエイティブだよ。」

この時点で、CANはライブ演奏や即興をものにし、1969 には早くもWDRケルンで初のラジオ放送、1970年には「The Beat Club, Bremen」で初のテレビ出演を果たした。

「曲をまったく同じように演奏したことは一度もなかったよ。しばらくの間「Paper House」か「Mushroom」を演奏してた。テーマは同じでも、実際の曲は違っていたよ。ヘッドアレンジ5は一度もしなかったんだ。「ヘッドアレンジ」はジャズのもので、ロック音楽はすべていつもヘッドアレンジだけど、僕らは違った。「OK、サビを2回歌って、それからギターソロ、それから次のソロ」なんて話はしたことなかった。ソロっていう考えはなかったよ。まず、同じことは二度やらない。次に、すべての瞬間がその瞬間だけの音楽を生み出す。僕ら全員、この古いコンセプトを持ち続けてたし、これは絶対に間違いないんだ。今もそれが、僕が興味を持つ音楽の瞬間だね。」

それ程多くのことが求められる音楽制作形態では、バンド間の緊張は避けられなかった。これも要因となり、バンドは1978年に解散した。

「CANの音楽はいつでもミュージシャン同士の戦争だったよ。音楽戦争さ。それがメンバー間の戦略だったんだ。だから真の音楽として今も残っているんだよ。作用と反作用で作り上げた、作曲といってもいいかもしれない。すべての感情を用いてね。単に暴力的なノイズを使いたいから使うわけじゃないんだ。暴力性を感じているからそれらのノイズを生み出して、誰かがそれに反応するんだ。」

ライブでもスタジオでも、ミヒャエルのギタースタイルが他のメンバーたちに影響を及ぼし、またその逆も然りであった、ということだろう。

「僕のギターサウンドは、なんというか、呼応するスタイルが特徴なんだ。とても主観的ではあるけど、面白い音楽というのは、こういったスタイルに基づいていると最大限に機能するんだ。だから僕は、すでにアレンジされた音楽が好きじゃないんだ。ステージ上に楽器を持ったミュージシャンがいて、客がいて、他のミュージシャンがいる。チェーンは、機材→ミュージシャンの耳→脳→手と移動して、そして楽器に伝わって、また機材へ戻るという流れだ。僕が好む最高の音楽は、脳がショートを起こし、考えることなく耳に入ったものが自動的にインパルスとなって手から楽器へと移動するんだ。

もし他のミュージシャンも参加しているなら、唯一の違いは、跳ね返ってくる信号が複数あるってだけだ。もし新しいトーンが現れたらどうするか?(ホルガーは、まったく異なるコードで新しいトーンをプレイすることがよくあるんだ)そのサウンドが良いか悪いか、そして特定の音をどれくらいキープすべきか、耳と手がすぐにそれを察知する。客がいるなら彼らにも耳を傾けなきゃならない。彼らもまた音を出すし、それにもし上空を飛ぶ飛行機が音を出していたら、それにも反応しなければならない。もし反応をしなければ、それは僕が聴いていなかったということだ。それが自分のキャパシティの限界、ということだね。」

CANでは事前にアレンジされた音楽を一度も演奏せず、リハーサルもしてこなかったのだとしたら、彼の最近のプロジェクトではどのようにキーボードを習得したのかが気になった。ピアノに座ってコードやスケールを覚えたのだろうか?

「いや、そんなことはないよ。音楽のコンセプトとして、僕は自分にとって簡単なものしかプレイしない傾向があって。ギターでも、練習が必要なものは一度だってプレイしようとしたことはないんだ。これまで練習なんて本当にしたことないよ。一般的には、みんなギターを一生懸命練習すると思うんだけど、僕はそうすることは危険だと考えていて、その証拠もたくさんあるよ。通常、技術を高めればオリジナリティは沈んでいく。そうじゃない例は見たことがない。唯一の解決策は、自分のスタイルを自分自身から自然に湧き立たせること。そうしたら、練習なんて絶対にしたくなくなるけどね。自分が弾けないことを練習するなんてのは、絶対に間違ってるね。」

ミヒャエルのスタイルは非常によく特徴づけられていて、それが最もよく表れているのは『Tago Mago』収録の「Oh Yeah」だろう。この曲で彼のギターは、生気のないリズムコードと、叫ぶようなリードラインをためらうことなく交互に行ったり来たりしている。

「あれはディストーションペダルだね。今使っているものとまったく同じものだ。すごく古いShallerのワウと、Big Muffのディストーションペダルがあって。特別なアンプは一度も使ったことがないんだ。その場にある機材でプレイできるというのは、優れたミュージシャンであるためにとても重要なことだと思う。自分の耳でプレイすれば、どんな楽器でも大丈夫なんだ。最近はますます確信を持ってそう思うようになってきているよ。というのも、特別な楽器でプレイする人が、別の楽器でプレイするよう頼まれると問題が生じる、というのを見てきたからね。とは言え、僕も以前特別なギターを持っていたことがあるよ。ストラトキャスターだ。ジミ・ヘンドリクスが使っていたから買ったんだ。僕は彼から音楽的には大きく影響を受けていないけど、どういうわけかネックが長いと「ビーン」とした音が出るから好きなんだ。そのギターは72年か73年のライブの後で盗まれてしまった。その前はフラマスとあと数本持ってたね。ギブソンのレスポールとかはショートネックだから、少し弱いんだ。

思うに、プレイの中で僕はいつもふたつのことをやってる。ひとつは、ゆっくりと作り上げていくこと。まるで飛行機が速度を上げていくようにね。それから他のメンバーを突き動す時は、ディストーションペダルを踏んで離陸するんだ。でも離陸したとしても、ソロなんか弾かないよ。僕はソロなんて信じないからね!CANの場合、集団で即興をするのではなく、共同作曲になる。どんな場面でも演奏中は作曲が行われるんだ。ステージ上でもね。作品は同じテーマに沿って毎晩作曲される。ひとつのテーマでなんだってできるからね、嫌気がさしたことはないよ。例えば、僕らが「Paper House」を演奏したとしたら、決まっていることはリズムとキーだけ。それから、曲が加速していったり、クライマックスを迎えたりっていう出来事は、僕らかそう感じたら起こるし、起こらないこともある。

僕は主にストライドピアノのプレイヤーとか、バンド全体から影響を受けるね。「ギタープレイ」っていうのには夢中になったことがないんだ。それよりも、音楽全体を構成するためのツールとしてギターに興味があった。ポリフォニックなプレイにとても興味があったから、ピックを使ったことは一度もないんだ。バンジョーを弾く時を除いてね。」

後期のVirgin時代のアルバムから最終アルバム『Can』まで、音楽的、技術的な洗練の必要性の高まりが、バンド終焉へと導いたきっかけだったのかをたずねてみた。あれは最後のアルバムとして意図されたものだったのか?

「ああ。実際にあれでCANは解散したんだ。『Saw Delight』でホルガーはより裏方の仕事をするようになってね。彼が連れてきた新しいベースプレイヤー6がいたし、ホルガーはやりたかったことがたくさんできて喜んでた。彼をベーシストとして迎えたからそれ以外のことはやらなかったし、みんなロスコとプレイするのをエンジョイしてた。でもその次の『Out of Reach』は違って、とても心地悪かったんだ。すべてが変わってしまってね。ロスコの、イギリスのスタジオでのミュージシャンとしての経験も要因のひとつだった。バンドが変わったと感じたのは技術的な問題じゃない。僕らはどんなテクノロジーでもいつだって喜んで使ってたよ。変わってしまったのはグループのダイナミクスだ。

最後のLPの頃グループには新しいメンバーがいた。彼らは誰かが曲を書いて、その作曲者が功績と金をもらえる、という世界にいたんだ。CANが本当のCANだった時は、そういったアイデアはまったくもって却下だったけど、その頃にはメンバーそれぞれが自分の曲を作るという方法しか残されていなかった。だから最後のアルバムでは各々が自分のやり方でやって、皆でオープンになって、やりそうもないことをやったんだ。僕が言ってるのは全体的なフィーリングについて語っているのであって、個々の曲のことではないよ。例えばある曲で僕は短波ラジオの音を入れて、あとからそれに声でボコーダーをかけた。(または声にボコーダーをかけて…どっちでもいいけど!)全体的にとてもパーソナルなものになって、コマーシャルであろうとするアイデアはすべてなくなった。その時にもう明らかだったんだ。ホルガーが抜けて、もうバンドは存在していなかった。」

CAN解散後、ミヒャエルは人里離れた村に引っ越し、自宅にレコーディングスタジオを設けた。時たまケルンやスイスを訪れ、イルミン・シュミットのサウンドトラックの制作を手伝った。過去数か月間、彼は自身のソロアルバムを制作しており、作詞とボーカルとして、70年代中期の音楽/演劇批評グループ、ムーディーズに在籍していたイギリス人女性、ポリー・エルテスが参加している。

「ソロアルバムは、僕にとって新しい音楽スタイルを示しているんだ。もしCANと比べるなら、多分『Tago Mago』が近いと思う。恐らく7曲入りで、それぞれ即興の1発録りがベースになると思う。後でそれぞれのアイデアを明確にしなきゃならない。ギター、キーボード、サックス、ドラム、それぞれ等しく力を入れているから、僕にとってはギター以外はすべて新しい経験だね。今はWaspを除いてシンセは使ってないんだ。Prophetも持ってて、よく使ってたね。でも空気感がとてもデリケートなものだと気が付いたんだ。つまみを回せばすべてが変わる機械を持っていても、空気感はなかなか作り出せないのさ。それに水が跳ねる音とか、そういったアコースティックな音にはシンセサイザーは合わないしね。

デジタルディレイはアルバムのミックスにだけしぶしぶ使っているよ。AMSとかね。テープエコーは使い慣れていて、そっちはディストーションのおかげでもっと生き生きとしているんだ。エコーを知覚するには音を減衰させる必要がある。そうじゃないとシンプルな繰り返しになってしまうし、必要であれば人工的にも入れなければならない。僕は自然のエコーのために谷を使うんだ。サックスはすべて外で演奏したんだよ、真冬でもね。だから指もキーも凍りかけてたよ。曲の終わりにかけてどんどん音を間違えるんだけど、それがいいんだよ!そっちの方が好きだね。

いい16トラックレコーダーとデスクを持っていてね。でもスタジオじゃデッドな音が出ないから、ミックスにはよくないね。アンビエンスが強くて、同じ空気感でプレイバックしたらおかしなことになるね。実質的にドラムなしで一度ミックスしてみたんだ。それからロンドンですべてを再度リミックスした。UKリリースが決まればいいんだけどね。そうじゃなかったら、Spoonから輸入という形になるよ。ここ(イギリス)はなかなか景気が悪いみたいだね。少し変な音楽にとっては特に。人がリズムマシーンに飽き飽きするのも時間の問題だよ!僕も部分的には使ってるよ。ドイツ製の「army surplus」モデルだ。とてもいい音だよ。CANスタイルで、音が鳴るものはなんでも使ったんだ。エレクトリックバイオリンからサックス、それにフライパン。言葉を紡ぐのは得意じゃなくてね。音楽以外で自分のアイデアを伝えられないから音楽を作るんだ。自分の世界の見方を言葉で表すことができない。音楽でだけ表せるんだ。詩人でもない限り、言葉はとても1次元的だ。事実を述べるだけさ。だからポリーと作業をしているんだ。LPの名前がどうなるかはまだ決めていないけどね。」

1日12時間の作業、それを12年間も続けたCANとの月日は、非常に骨が折れたとミヒャエルは説明してくれた。全メンバーにとって、時にバンドは楽しみよりも苦しみを生み出していたと。このコメントに鑑みて、彼のソロプロジェクトはCANのコンセプトにはフィットしないアイデアを表現したものなのかを、最後にたずねてみた。

「いいや、まったく違うよ。僕は街から離れて、完全に自分だけで作り上げたんだ。恐らくポップからの影響もあるだろう。でも、CANにおける自身のコンセプトと同様に、オーソドックスじゃないアプローチでね。CANの終焉とともに、グループの魂は消えて死んだんだ。それか地下に沈んでいった。なぜなら、それはもう「起こらない」からね。多分、僕らはまた何かをやると思うよ。新しいCANが現れるはずだ。数年の間、僕らみんな離れて作業する場所が必要だったんだ。」


このインタビューから3年後の1986年、シンガーのマルコム・ムーニーを含むCANのオリジナルメンバーが再集結してリユニオンアルバム『Rite Time』を発表し、実質的にはこれが最後のアルバムになりました。

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脚注

  1. ドイツのバイエルン州東部に位置する。
  2. ディキシーランド・ジャズ。20世紀初頭に発生し大流行したジャズのスタイル。30~50年頃にリバイバルした。
  3. ・シュミット。イルミン・シュミットの妻で、バンドのマネージャーでもある。
  4. インナースペーススタジオ。
  5. 譜面による編曲によらず、演奏に先立って口頭で進行を決めて演奏すること。コトバンクより
  6. トラフィックのロスコ・ギー。
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